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【特集:『帝室論』をめぐって】
春秋ふかめ揺ぎなき──戦後復興期の義塾の気概

2019/05/07

戦時下の「福澤思想抹殺論」と塾風

ようやく自分達の時代が来たという感覚を理解するには、その前の時代に塾の人達がどのような体験をしたのかを知る必要があろう。

渡辺は幼稚舎生を疎開学園で引率していた時の体験を語っている。疎開先では、地元の小学校の教室を借りて授業を行っていた。その学校の生徒が掃除をする際、教室に入る時にも出る時にもその度に敬礼をするよう先生から叱咤されているのを見て驚いたと言う。

「『皇国民の錬成』という旗印をかかげた、その頃の世の中で、どこもかしこも敬礼ばやりではあったが、これには唖然とした。こんなばかばかしいことは幼稚舎ではとても考えられないことであった。いくら戦時でも幼稚舎教育はもっと人間的であり、合理的であり、スマートであった。私はそこに塾風をみたと思った」

周囲はあらゆる所に軍国調が入り込む中で、塾の気風、塾の個性を自覚することになったのである。

それだけでなく、昭和10年代には次第に、「福澤思想抹殺論」が出回り、慶應義塾は西洋の自由主義を日本に入れた福澤諭吉の学校として、言わば国賊のように見られるようにもなっていた。

例えば、東京帝国大学教授の平泉澄が編纂した陸軍予科士官学校の教科書『本邦史教程』の「明治ノ思想界ト教育勅語」の節を見ると次のような文言が並んでいる。「明治維新ノ精神ハ明治5年以後西洋思想ノ浸潤スルニ伴ヒ、急激ニ土崩ノ途ニ就ケリ」、「其ノ先鞭ヲ着ケタルハ福澤諭吉ナリ」、「最モ深刻ナル影響ヲ与ヘタルヲ(略)「学問のすすめ」ナリトス」という具合である。要は、福澤先生の個人の独立を尊重する自由平等の思想への批判で、「本書ノ趣意ハ我ガ国古来ノ見解ト全ク相反セリ」、「之ヲ徹底セシムル時ハ、君臣ノ関係ハ畢竟便宜的ニシテ」、「根本ノ価値ヲ顚倒シ来ルハ当然ナリ」等と厳しく警戒し批判している。従って、陸軍に入隊した塾生の中には、その影響を受けた上官から、慶應義塾の学生であるとわかるや、徹底的に叩き直してやると、ビンタをされたり竹刀で打たれた者もいた。

先生の著作も、検閲で削除を求められ、出版社もそれを恐れて削除を事前に求めて来るようになって行った。例えば、昭和12年、大学予科の副読本として『福澤文選』を刊行すると、その中の『帝室論』が、文部省の思想局の検閲で、青年学徒の読み物としては適当ではない、再版以後削除するようにと言われ、他と差し替えることになった。

これらの例が示すような状況を、福澤研究の第一人者であり塾歌の作詞者でもあった富田正文は、次のように記した。小学校教員向けの『新しい小学校』(昭和25年9月)に掲載の「人間の教師 福澤諭吉」の末尾である。

「我が国民に人権の尊厳を教え、自由の理を説き、独立の大義を示し、民主主義の大道を打開してくれたこの巨人を、小賢しげなしたり顔で、誹謗し罵言し攻撃する者が横行しまたその尻馬に乗る者が輩出していた間に日本の運命は急坂に石が転ずるような勢で顚落して行った。そして、やっと気がついて、改めてその真価を見直そうとしたときには、福澤を始めとして幾多の先人が営々たる辛苦を以て築き上げた日本は既にもとの振り出しに戻ってしまっていたのである」

高橋誠一郎と「独立自尊主義」の教育

敗戦後、国の行方を定める事が難しかった時に、首相の吉田茂が頼った人の中には義塾関係者が少なくなかった。小泉信三への信頼が終生大きかったことは有名だが、他にも、法学部で政治学と国際法を講じ、『時事新報』を支えた板倉卓造、経済学部で財政学を講じ経済安定本部長官顧問官を務めることになる永田清、小泉塾長時代の常任理事で、後に防衛大学校の初代校長となる槇智雄らもいる。そして、空襲で重度の火傷を受け療養していた小泉に代わって昭和21年4月から22年1月まで塾長代理を務めた高橋誠一郎は、吉田内閣で文部大臣を務め、教育基本法の制定等を実現した。

高橋が文部大臣になった経緯は、義塾医学部の出身で後に日本医師会長を長く務めた武見太郎が『戦前戦中戦後』に詳しく書いている。武見は吉田茂と縁戚関係にあり、吉田は武見の診療所にしばしば立ち寄っていた。

昭和天皇から文部大臣田中耕太郎に、民主主義の社会では皇室と国民の関係はどうあるべきか御下問があった時に、田中は「将来考える問題だと思います」と御返事するのみであったため、吉田も呼ばれて「総理大臣はどう思うか」と問われ、困って引き下がったことがあったという。武見はこのことを聞き、福澤先生の『帝室論』は日本の現状にあてはまるという話をした。すると吉田は、すぐに読みたいと言って、武見に総理用の公用車で柏にあった武見の自宅まで取りに行かせ、その場で数時間かけて一読、文部大臣を小泉信三にお願いしたいということになった。しかし、小泉は空襲での大火傷から体調が回復していないことから、吉田は、それでは高橋にと考え、説得を重ねたのであった。

高橋の在任期間は、22年1月31日から吉田内閣が総辞職した5月24日までの僅か4カ月であったが、その間に教育基本法、学校教育法の公布・施行という戦後の新しい教育の基礎を築いた。財政上の理由で閣内でも反対の雰囲気の強かった、義務教育を小学校6年間から小中9年間にする6・3制の実施にも漕ぎ着けた。

その高橋の文部大臣時代の資料は、昨年刊行の『近代日本研究』第34巻(白石大輝「高橋誠一郎文部行政関係資料」)に紹介されているがなかなか興味深い。例えば文部省の職員を前にした就任の挨拶では次のように述べている。

「それにつけてもしば〳〵思い出され、又はなはだ遺憾に堪えませんことは、明治の大先覚者福澤諭吉先生が多年主張して来られた独立自尊主義が多く世の容るゝ所とならなかったことであります。この独立自尊主義を根幹といたしまして、小幡篤次郎氏その他先生の直弟子たちによって起草され、(略)『修身要領』と称する所のものは、その発表の当時、けん〳〵ごうごうたる非難攻撃の声に葬り去られまして、遂に時代を支配する力とはなり得なかったことであります。」

更に、明治14年の政変以後、政府が儒教主義を復活させてから敗戦に至るまでの時代についてこう語った。

「福澤先生及び慶應義塾の先輩たちは勇敢に教育上の官僚主義と戦を交えて参ったのでありまするが、然しながら、ついに後継続かず、結局におきまして、軍国主義、超国家主義ばっこの世を見るに至らしめまして、(略)まことに失われたる教育史上の60年真に惜しむべしであります」

その際、高橋は、福澤先生が漫言の中で、自由主義民主主義的な思想を弾圧しようとするならば、日本中の学校を閉鎖し、生徒達に馬糞拾いかまぐさ拾いに従事させれば良いではないか、と言ったことを引き、戦時中には「先生の漫言の通り、学童をして学事を廃して、まぐさ刈りに従事させたのであります」と痛烈に皮肉も述べた。

そして、「この学塾が永年主張し来つた独立自尊主義の教育を実際に施すべき時期の到来したことを確信し、みずからはからず、この大任を受諾した次第であります」と結んでいる。

高橋は在任中に、昭和天皇に教育基本法の制定について御説明をし、また、『帝室論』について御進講する機会があった。その際には陛下から「その福澤の帝室論と尊王論を読んでみたい」と御希望があり、塾の図書館から初版本を取り寄せてお貸ししたところ、早速に通読されたという。

なお、その御進講の折には、陛下から「民主主義下での天皇制の在り方や、徳目の基準として教育勅語がなぜいけないのか」ということについて御下問を受け、高橋は、『帝室論』を挙げて御説明すると共に、人々の道義、信条は人の内心から発するもので上から命令的に強いるものではないとして教育基本法の前文等の意義を述べたという。この事情は、『三田評論』の高橋誠一郎追悼号(第826号)で山本敏夫と清水伸が記している。山本は小泉の塾長秘書を務めた教育学者、清水は戦後の板倉を中心にした『時事新報』の政経部長である。

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