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【特集:薬学部開設10周年】
人生100年時代の慶應薬学──総合大学の強みを生かして理想の4P医療を

2018/10/05

  • 冨田 勝(とみた まさる)

    慶應義塾大学先端生命科学研究所長、環境情報学部教授

万人に効く薬はない

どんな薬でも効能には個人差があり、良く効く人と効かない人がいて、副作用がない人とある人がいます。そして同じ個人であっても、その時の症状や体調によって、効いたり効かなかったりします。

そんな薬の典型例が抗がん剤です。抗がん剤とは、がん細胞を叩くためのいわば〝毒〟です。多量に投与すれば、がん細胞を死滅させることはできますが、正常な細胞にもダメージを与えてしまい、副作用が重篤になってしまいます。副作用を軽くするためには、投与量を少なくすればよいのですが、そうするとがん細胞を充分に叩くことができません。個別の症例に対してどの抗がん剤をどのくらいの量を投与するか、この判断は極めて重要なのです。

ゲノム解析で生まれつきの体質がわかる

ヒトの設計図であるゲノムは、ATGCの4種類のアルファベットが30億文字連なって書かれています。この30億の文字列(ヒトゲノム配列)は、人によってわずかに異なり、その違いは約0.1%です。つまり他人同士のゲノム配列は、ざっくり言うと千文字に1カ所異なっています。この違いが顔や体格や体質の違いなのです。

様々な薬剤に対しての感受性や副作用の有無も、ゲノム中の遺伝子配列を見ることで判断できるようになるでしょう。ゲノム解析のコストは昨今とても安価になりました。患者さんのゲノム情報を元に、最も効果があり副作用の少ない薬剤を選択し、最適な投与量をコンピュータに予測させる時代が近い将来必ずやってきます。

メタボローム解析で今の体調がわかる

ゲノムとはいわば設計図なので生まれついての体質はわかりますが、今現在の体調についてはゲノムを解析してもわかりません。そこで、体調を分析するための手法として、慶應鶴岡タウンキャンパス(山形県)の先端生命科学研究所は、「メタボローム解析」という技術を世界で初めて開発しました。ヒトの血液や尿や唾液には、アミノ酸や糖など数百種類の代謝物質が含まれていて、それらの量は刻々と変化してその時々の体調を反映しています。メタボローム解析は、これらの代謝物質を一斉に測定することができるいわば究極の成分分析技術です。血液や尿、唾液、便をメタボローム解析することによって様々な病気を診断することも可能で、鶴岡発ベンチャー企業が実用化を進めています。

「サリバテック社」は唾液をメタボローム解析することで、すい臓がんを発見する技術を開発しました。「唾液でがん検査」の実用化および社会実装に向けて、今年大手企業と提携して社員1000人を対象にトライアルを実施するなど着々と研究開発が行われています。

「ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ株式会社」(HMT社)は、血液検査によるうつ病の診断の実用化を目指しています。うつ病患者は血液中のPEA(エタノールアミンリン酸)という代謝物の濃度が低下するので、PEAの値を測定することで、うつ病かどうかを推測できるのです。そして薬治療によってうつ病が改善すると、PEA値は正常値に戻ります。すなわちPEA値はうつ病の度合いを表すため、投薬の量を判断する際の重要な指標となり得ます。HMT社は東証マザーズに株式上場しました。

近未来の4P医療を先導する

近い将来、病院では患者のゲノムとメタボロームのデータに基づいて、コンピュータが最適な薬と量を予測する時代がくるでしょう。そしてその治療結果、つまり「どの薬をどのくらい投与したらどのくらいの効果と副作用があった」という情報は匿名化されて公共データベースに蓄積され、データが大きくなればなるほど、コンピュータの予測精度が向上していくでしょう。

一方家庭では、トイレにセンサーが組み込まれ、尿と便を自動分析できるようになり、健康状態を常時モニターして、もし病気や未病の疑いがあれば、その旨スマホにメールが届き、いち早く適切な治療や予防を行えるようになるでしょう。

このように近未来の健康長寿社会は「4P医療」が鍵になります。4Pとは、
 Personalized(個別化)/Predictive(予見的)/Preemptive(予防的)/Participatory(参加型)
のことで、薬学の役割はますます大きくなると思います。

本塾では薬学部をメインに、医学部、理工学部、SFC、そして鶴岡で薬学研究を行っています。これらの学生たちと学部横断的な合宿や研究発表会を時おり行っていますが、各キャンパスの文化や、研究の切り口も異なるため、とても新鮮で刺激的です。総合大学の強みを生かし、学部の壁を乗り越えて、学生たちが未来の健康科学を語り合う。そんな慶應薬学は、人生100年時代の健康長寿社会を強力に先導していくことでしょう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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