【特集:「多死社会」を考える】
座談会:今、「死」の捉え方はどのように変化しているのか
2026/02/05
揺れ動く死への臨み方
堀江 最近世論の変化も多少感じます。つまり、どのように死ぬかということを自分で決めるということが結構、宣伝された時期があったと思うのですが、それに対する反発みたいなものも出てきて、迷いも見られます。僧侶であって終末期の患者さんを診ていた方が、結構迷っている姿が、NHKで放送されたりしましたよね。
ほかにも、やはり在宅医療を推進していた医師の方が、最期はできるだけの治療をしたいと、フルコースの医療にこだわるようになった例もあります。
そういう迷いの姿というのは、多死社会になったからこそ出てきた面もあるのかなと思っています。
戸松 恐らく、「理想の死」というものはないのです。その環境の中でできることで、残された人も亡くなっていく人も「まあ、いいか」となる。仏教でもすべてが移り変わると言っているから、固定観念を持っていても、経験を積むことで変わっていく。お坊さんでも、人に説いていることと、自分の思いは逆という例もある。
お医者さんも揺れ動いている。まさに「最期は余計なことはしなくていい」と言っていた人が、「できるだけのことをやってほしい」と思うのは、私は人間として至極当然だと思いますね。
それを「こいつが言っていたのは嘘だ」と周りが言うべきではなくて、人はいつも変わっていくから、その時にその人が言ったことを受け入れるということが、ご家族やご本人にも一番いいことかなと。仏教的には価値判断をしないということです。
堀江 一時期、「Good Death(よい死)」というのが流行ったのですが、それに対して「Good Enough Death」という言い方が英語圏でも出てきています。Goodというのは「よい」という意味もあるのですが、この場合「十分な」というもともとの意味です。「足ることを知る」という感じかなと。
戸松 そうそう。「まあ、いいか」ということ。「まあ、いいか」の精神は、私は最近、皆さんにもお話ししているのですが、それが自分を受け入れる一番いい方法ですから。
澤井 日本だと1990年代ぐらいからインフォームド・コンセントが普及して、がんの告知をするほうがよいとなったり、尊厳死に注目が集まり、「死の自己決定」や、「自分らしい死に方」が強調されてきたと思うのです。
その延長線上に2010年代ぐらいからの終活もあると思うのですが、「自分らしい」と言われても私も正直よくわからない。いざ死ぬとなれば、多分迷うだろうし、こう思っていたけれど、いざとなると、「やはり違う」となってしまうのだろうと思います。
二極化する埋葬
澤井 お墓も1990年代ぐらいから自然葬などが社会的に認知されたり、共同墓とか公園のようなものもあれば、永代供養墓で、葬祭業者がやっているものもあれば、お寺さんがやっているものもある。さらにデジタル墓というのでしょうか、デジタル空間上に自分を残していく、あるいは追悼アカウントみたいなもので自分を残していくとか、いろいろなお墓の形が出てきていますね。
辻井 死後についてどう選ぶかということに関しては、90年代以降、散骨や樹木葬、合葬式の墓地や永代供養墓といったものが出てきて、少しずつ社会的に認知されてきました。今だと「散骨を選ぶなんて、何てことをするんだ」みたいなことを言う仏教者の方も多くはないと思います。
戸松 言えないですね。それをされるとお寺に来なくなって収入が減るから駄目、と思っているもしれませんが。
澤井 葬儀業者もメニューに入れていますね。
戸松 でも、海洋散骨は高いのですよ。
辻井 そうですね。散骨もそうなのですが、「二極化」がここにも起こっているように思います。お金を持っていて、家族がきちんといて、どういう死後の弔い方がいいかを家族と相談した上で、お墓を選ぶ方もいます。その一方で、家族がいないとか、そういったことを考える余裕もない、家族と関係が悪くて頼めるのかもわからない、といった人も増えていると思います。
散骨も高級化して、数十万円で船を1艘貸し切ってセレモニーのようにやるサービスも現れています。一方で、引き取り手のない遺骨とか、成年後見人の弁護士さんなどが持っている遺骨を3万円で受け取って、事業者が「海に撒いておきます」というサービスも出てきています。その場合は、僧侶の方を呼ぶこともなく、ただお経のテープを流すだけで散骨を行っています。
戸松 お経を流すのですか。それは選択なのでしょう?
辻井 いえ、それをしないと弔意をもって行うということにならないと。散骨自体は、死体遺棄罪などとの関連で法的にグレーゾーンでして、弔意をもって行うのならば、形式的に問題ないと位置付けられています。
戸松 そうしないと、ごみを捨てるのと一緒になってしまう。
辻井 そうなんです。そういう形で、死後、誰かが遺骨の処理のために依頼しているような業者もあれば、セレモニーのように第2の葬儀をやるという人もいて、散骨一つ取っても二極化のようなものが現れているようです。
以前、統計的に分析したところ、女性にとっては収入の差が関係なく、散骨を希望する意識があるのですが、男性に限ってみると、収入が低い人ほど散骨利用の希望が高い傾向があります。家族もいないしお金もないから、家族に迷惑を掛けられないから、散骨でいいと思っている方も増えているのではないかと思います。
埋葬の未来
堀江 私の調査で以前に比べて多くなったのが、個人の墓に入れないで、集合納骨施設に収蔵してほしいというものです。納骨堂などに入りたいという人も増えています。
戸松 すごく多いですよ。例えば後妻さんで、関係もすごくいいのですが、やはりお墓には先妻さんも入っているし、私は納骨堂に入りたいと。それからご夫婦で、ご主人が亡くなり、「私は本当は自分の実家のお墓に入りたいけれど、それもできないし、でも主人の親とは一緒に入りたくない」とお子さんたちも合意の上で永代供養塔に申し込む方もいる。本当に多様化していて、これも日常の関係性が死後のお墓にも反映しているのです。
私は将来、おそらく国が無償で埋葬をやると思っています。今、全国で無縁の墓ができて、地方行政はそれの処理もできない。もう都道府県や市町村からすると、税収はなくなるし、お墓の処理にもお金がかかる。今がラストチャンスなのです。団塊の世代は実家のお墓のことをわかっている。そういう人たちがいる間に、遠方でお参りできなくなる前に、お墓の「墓じまい」はちゃんとやってほしいということです。
なぜ無縁墓のこの問題が起きるかというと、お骨が残るからです。1つの試案としては、望む人には火葬後にお骨を持って帰ってもらわない。技術的には全部焼却できますから。それから、研究者の中には北欧のベースモデルを提案する人がいます。国が無償で埋葬をするということです。
お骨は1カ所に、いわば捨て墓みたいなところに全部入れてしまって、メモリアルパークとして碑を建て、そこでご家族が亡くなった人の名前を見つけてその前で偲ぶ。その代わり、お線香もお花もお供物もあげられない。
しかし、そうなったら、お寺はみんな潰れてしまいますから、反対しないといけない。
辻井 全国の自治体で、例えば生活保護受給者や行旅死亡人として亡くなられた方を火葬した場合の、残ったお金や遺骨をどうしているのかを総務省が調査しています。その調査によれば、自治体は、遺骨の取り扱いみたいなものがはっきり規定されていないのでごく困っている。勝手に処分していいのか、それともいつまで保管するのか。
公営墓地があるような自治体は、そこに一旦置いておくなどしているようです。でも、合葬墓に合葬してしまうと、後から遺族が来たときに返せないとトラブルになるから、それを国のほうで何年保管すべきと定めてほしいと。
公営墓地の無縁墓に関しても、戸松さんのおっしゃる通り問題化していて、総務省が2020年代に調査をしています。全国の自治体の悩みであり、何とかしなければいけないと考えているようです。お墓を維持できない人たちはどんどん増えていくので、今後、行政側がカバーしなければいけないということですね。そこで法の運用を含めて新しい動きを模索している段階になっていると思います。
あと、やはり各自治体ごとに墓地行政は動いているので、各自治体で何か、やれる場所ではやっておこうという感じの動きも現れているようです。特に公営墓地があるところは、早めに合葬墓を造ろうという動きが起こっているのではないかと思います。
戸松 やはり一般の方は、費用の問題が大きいのです。おっしゃる通り、お金のある方はいろいろなチョイスがあるし、お寺とも付き合っていける。しかしお金のない人たちには遠い世界だから、必然的にそういうことは起こってくるのかなと思います。
本来、私たちお寺が、そういう人たちには無償で門戸を開いてやるべきで、それが私たちお寺が非課税である理由なわけです。
辻井 ちょっと擁護すると、行政の資料を読むと、お寺さん側が申し出てくれることも結構あるみたいです。
戸松 なるほど、それは素敵ですね。
辻井 でも、政教分離の原則上、遺骨を任せたくても、お金を出して頼むことはできない。また、遺族が引き取りに来るかもしれないし、その時の所在を行政側が把握しておかなければいけない。
戸松 その人がキリスト教かもしれないし、なぜお寺に行っているのだと。
辻井 そうなのです。そういう意味で、熱意あるお寺さんがいても噛み合っていないという事情はあるみたいです。
2026年2月号
【特集:「多死社会」を考える】
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