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【特集:「多死社会」を考える】
座談会:今、「死」の捉え方はどのように変化しているのか

2026/02/05

喪失の男女差の実際

堀江 「終活バー」というところが都営新宿線の森下にありまして、納棺体験ができるんです。

でも、いろいろな人と話ができるかなと思ったら、上智大学のグリーフケア研究所で勉強していますという人に結構会うんですね。もともと興味のある人が多く、大体女性で、40歳からちょっと若めの感じの女性が特に関心があるようですね。

実は私の調査でも、死別や悲嘆を感じるのは、男性より女性のほうが感じやすいという傾向はあります。

戸松 私の実感は全く逆です。多分データ上も、配偶者が亡くなった後の余命率は女性のほうがずっと高い。

具体的に私の世代より上の男性は、家庭生活で掃除も洗濯も食事も全部、奥さんがやっていて自分でやっていない。奥さんが亡くなると、うちの檀家でも「住職、ご飯をどこでどうやって食べたらいい?」と言う。「一人で食べたことがない」という方もいらっしゃる。そうすると生活が崩れて亡くなる方も多い。

悲嘆を引きずるのは、男の人です。「私にも早く迎えが来るように」と言っていた女の人が、1年経ち2年経つと、「こんなに人生が充実しているのは初めてです」とか言う(笑)。元気いっぱいで若くなっちゃって、お友達もいっぱいいて全然違います。

堀江 確かに希死念慮は女性のほうが高いけど、実際の自殺者は男性のほうが圧倒的に高い。意識と実態の乖離があると思います。

戸松 以前、国際医療福祉大学で学生に「お葬式をやりたいか」と聞いたんです。9割は「やりたい」と言う。でも、今のお葬式は「暗い、お金がかかる、意味不明」だから、宗教者が来る形ではやりたくないと。イベントとして、亡くなった人の好きだった音楽とか、友達が集まって思い出を語るというものは企画してやりたいと。

また、対面での人間関係というのは当然、いい時ばかりではなくて介入されるから煩わしい。けれどネット上であれば、自分で嫌になったらオフにすればいい。おそらく普段のいろいろな関係性がそこにも反映してきている。要するにフェイス・トゥ・フェイスの人間関係で何かを感じたり、培うよりは、ネットの中で仲間ができても、オフにすれば来ないし、嫌なことは聞かないということだと思うのです。

葬祭に宗教は本当に必要なのか

堀江 実は私の調査ですと、「自分の葬式に多くの人に参列してほしい」という割合は、2019年は14.8%だったのですが、24年は18%で、統計的に有意に高くなっています。

戸松 イベントですよ。

堀江 「自分の葬式を宗教式で行ってほしい」というのは、下がってはいないのですが統計的には有意ではない。

全体に「多くの人に参列してほしい」も、「宗教式で行ってほしい」も2割なので、今、二極化している感じが少しあって、保守的な人とか家族に恵まれている人は一定数いるのかもしれません。号泣する家族もいたということですが、本当に家族によって全然違うところもあります。

澤井 葬儀も昔ながらの、地域の人を呼んで自治会も協力して、という葬儀ではなく、家族葬が半分以上になり、直葬もかなり増えていると言われます。ただ、同時に、昔から葬儀を司ってきたのは日本の場合は仏教ですよね。

戸松 今でも9割はそうですね。

澤井 家族葬であっても、やはりお経は唱えてほしいという傾向はあるようです。たとえお経の意味がわからなくても、そこには何か人を安心させるような効果があるのかなと。

戸松 もともと日本の檀家制度は信仰共同体ではないのです。要するに、信仰があるからお寺の檀家になっているのではなくて、たまたまご先祖の墓がずっとあるからそのお寺の檀家でいる。だから、先祖の供養をしてくれて、自分たちのこともわかって大事にしてくれれば南無妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でも、もっと言えばアーメンでも何でもいいのです。

例えばうちでも若い人でお墓参りに来る人はいっぱいいます。それは小さい時から、祖父母や両親といつも来ていた人です。「昔はよくお菓子をもらいました」とか言うわけです。恐らく葬儀で、信仰もないのにお坊さんを呼ぶのは、そういうことを経験してきていて、人が亡くなった時にはお坊さんにお経を読んでもらうものだということが、経験の共有として残っているからだと思います。

一方で今、宗教者を呼ばない葬儀が増えています。これも、ある意味で変化の必然です。宗教者を呼ばない、宗教的な意味のないお別れ会で、家族葬で家族だけで送るということです。

浄土宗の教義でもお葬式をやらなければ往生しないということはなくて、お坊さんなんか本当はいなくてもいいのです。今のままお寺との関係性が希薄になっていって、普段から何か相談したり顔の見える付き合いがなければ、皆お坊さんを呼ばなくなり、仏教の葬儀はどんどん減ると思います。

堀江 ただ、直葬というのは普通は僧侶を呼ばないはずなのに、火葬場に僧侶を呼ぶこともあるようです。もともとダイレクト・クリメーションと言って、英語圏だと本当に宗教者を呼ばない。宗教者は教会にいるものなので、火葬場に出張することはないわけです。しかし、日本人は、それでもなお、お経を読む人を望むという。

戸松 非合理的ですが、お経をあげないと何か後ろめたさがあるのだと思います。うちでもそういうことがありますが、お釜の前だと、長くお経をあげても5分です。戒名をつけた仮の位牌を持っていって、それで終わりです。

葬儀の形はどんどん変わっています。昔は例えば初七日は、火葬が終わってからやるものでしたが、今は出棺する前に初七日をやる。「そんなのは駄目だ」と言っていた形式にうるさいお坊さんたちも、結局、今はそれを受け入れています。だから、儀式の形というのは仏教の正統性などよりも、それをされる皆さんと、社会の価値観が決めていく。それに仏教は合わせていくのだと思います。

看取りと家族関係

澤井 今までは亡くなった後にどう見送るかというお話が主でしたが、看取りの場においてのご家族、あるいはご友人などの人間関係のあり方の変化で気になるところはありますか。

例えば先ほどの「グエー死んだンゴ」と書いた若者ですが、ご家族はそのことは知らず、友人との関係が非常に深くて、後からご家族が知ったようです。井口さんは、在宅で看取りをする中で、どのような感触を抱いていらっしゃいますでしょうか。

井口 この方は、若かったこともあり、親・家族とは違う場にいろいろな面を持たれていて、その1つの面が、匿名の人たちの心に響き、大きな反応になったのだと思います。ネットスラングでお決まりの「成仏してクレメンス」と言って見送ったという。そこに、はかないつながり感みたいなものができていたのかなと思いました。

看取る患者さんのいらっしゃるお家に医療で行くとなると、どうしてもご家族を中心とした関係性に深く関わることになるので、こういう外での面は見えないかもしれません。見えていないところでの様々な「この人のつながり」にどれだけ近寄れるかは、いつも問われている気がします。

個人がいろいろな場所で活躍するようになればなるほど、そういう「見えなさ」がどんどん出てきて、医療者はそういう見えなさを踏まえて関わる必要が増えてくるのでしょう。

澤井 ご家族であってもそれぞれ多様な人生を生きていて、価値観も様々だと思います。ですから、皆さん仲よしで、両親を敬っている、とはいかないケースも多いのではないかなと。

井口 むしろ、そういうことは稀のような気がします。皆がそれぞれの場所で生きていて、それぞれの思いがあり、その関係をどうおさめていくか。ご本人のお体が弱っていく中で、全員が100パーセント満足ということは絶対になくて、皆が少しずつ妥協したり満足したりしながら調整していくことになります。

ご本人の死ということも大切ですし、ご家族を亡くす周りの方の経験も、やはり大事なことです。そこが深さであり、難しさであると感じます。

澤井 井口さんはかつては病院医療もやっておられたのですよね。現状の、病院医療等の状況を考えると、看取りという面ではいかがでしょうか。

井口 これも「病院は」と一言でまとめるのは難しいかもしれません。在宅医療を受け始める前には、多くの人は長い時間、病院で治療の段階があるわけです。すると、在宅医療が入り始めた瞬間にすぐ受け入れてもらえることなんてほぼありません。

その段階では真に信頼しているのは病院の先生であり、病院という場所であり、自分のデータがたくさん残っている病院のカルテです。そんな中、定期的に来る在宅の医師が「話を聞いてくれるからいいかも」みたいにだんだんと関係を積み重ねていき、「じゃあ、このまま先生に診てもらうのでいいよ」となる時間が必要なのです。

その迷っているフェーズで「やっぱり病院に戻りたい」となることもあります。以前は、「何で返してくるんだ、一度、在宅に紹介したのだから、もう二度と送ってくるな」みたいなクレームを言う病院も結構ありました。今は少し雰囲気が変わり、「人間は迷うものだよね」と対応してくださるところは増えてきたなとは思います。

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