【特集:英語教育を考える】
座談会:AI時代こそ大切になる"ことば"の学びとは
2025/05/08
変わっていく英語教育
原田 この間オクスフォードから帰ってきた研究者と話をしていたら、日本語も結構、危機的な状況にあるのではないかという話題になりました。いろいろな分野で、外来語がカタカナとなって使われていますが、日本人があまり理解しないまま、場合によっては英語のカタカナ発音のまま日本語に登場してきたりする。例えばコンプライアンスとか頻出しますね。
これは、例えば「Society」が果たして日本語の「社会」と同一なのかとか、「Individual」を「個人」と訳して、その概念が本当に把握できているのかというような、翻訳語の問題、あるいは、もっと根源的な言語による概念規定の問題にもかかわってきます。福澤は、「Individual」もしくは「Individuality」を、「人各々」とか「一人の民」とか「独一個人の気象」といった具合に、いささかもどかしそうに訳語をあてていましたね。
慶應における英語の問題には、こんなことも含まれてくるでしょう。そういう中で、慶應は、小学校から大学、大学院に至るまで、包括的な教育を担えるという強味があります。そんなことを考えつつ、慶應義塾と今後の英語教育について、いかがでしょうか。
山本 私は慶應義塾の強みというのは高大というよりは小中高大の仕組みだと思っています。小学校が2つ、中学校が3つ、高校が5つある中で、縦と横がつながっていくと、もっと立体的なものになるのではないかと思っています。
それが今は上手くいくところといかないところがあります。一貫校全体では多くの英語科の教員がいますが、やはり、慶應義塾の英語教育というのはもっと連携してやっていけるのではないかなと思います。
一貫校の教員のゴールの1つはやはり大学につなげていくことだと思います。瀧野さんがおっしゃった学部による必要な英語の違いというのはまさにその通りで、理工学部が必要な英語と、文学部、経済学部で必要な英語は違うけれど、実はそこをあまり意識せず大学に出してしまっています。
これからは一貫校の立場からも慶應義塾の英語教育に、より貢献していきたいと思っています。
原田 瀧野さん、ビジネスイングリッシュと約40万人塾員へのメッセージ、ということでいかがですか。
瀧野 まず、英語が今はとても変わってきていると伝えたいと思います。世界での英語の使われ方自体が変わっているというのもあるし、英語を学ぶ環境も変わっているし、学びを助けるツールも大きく変わっている。
そういう中で、もし卒業してしばらくたった方がもう一度英語をやろうかなと思われたら、大学時代に学んだのとはまた違う学習方法があるということを、少し視野を広くして、探していただければと思います。
今は実際に日本の外で話されている英語を直に聞く機会がたくさんあるので、こういう世界で英語を使いたいとか、こういう英語を使ってみたいとか、自分が使うイメージを具体的に持って興味のあることを英語で表現すると、楽しく英語を勉強できると思います。
仕事でこういうことに使いたいなど目的がはっきりとわかっていらっしゃる方には、一直線に勉強できるような方法もあるので、ぜひ、いろいろと試し、自分に合った学び方を見つけていただきたいなと思います。
コミサロフ 慶應義塾大学で提供している英語教育には、全般的に非常に満足しています。非常に幅広いコースを提供しているので、私が知っているほとんどすべての学部で、学生は自分の興味に合った授業を受けることができます。
慶應の学部には、異文化間コミュニケーションを学んだ教師が多く、英語コースに異文化間コミュニケーション研究を取り入れて教えていています。一方、大学院レベルでは、異文化間コミュニケーション専攻のプログラムはありません。
ですから、私は異文化間コミュニケーションの研究機関、異文化間コミュニケーションの大学院プログラム、または少なくとも修士および博士レベルで提供される個別の授業をぜひ実現してほしいと思います。
言葉の使い方が重要となる時代
原田 よくわかります。Cross-cultural Communication は、大学院の全研究科で共通の制度として確立していきたいですね。
阿部さんは東京大学の中でもいろいろとご苦労がおありかと思いますけれど。
阿部 これからは大学ももっと稼げと言われて、文系が稼ぐかどうかは別として研究力を上げなければいけないというプレッシャーがすごく強いわけです。その時、どのように言語にかかわる専門家が頑張っていくかです。実際、私や原田さんは文学言語にかかわりますが、やはりちょっと劣勢なわけです。果たしてわれわれがどれぐらい社会の役に立っているのか、周りの人がなかなか納得してくれないところがある。
ただ、考えてみると、今ほど言語が社会の中で大きな存在感を持っている時代はない。例えば世界のあちこちで戦争が起きていますが、明らかに言葉が大きな武器になっているわけです。これは「ペンは剣よりも強し」という話ではなく、言語そのものが武器になり戦争がより激しくなったり、経済を動かすのも誰かの発言だったりする。あるいは身の回りでも、ちょっとした言葉の使い方で、ひどい心理的なダメージを負ってしまう人もいたりする。
いかに言葉というものが、役に立つけれど恐ろしいものであるか。今ほど痛感する時代はないと思います。そのことを、言語を中心に研究している人間が考えなければいけない。
その時に頭に入れておかなければいけないのは、言語は常にメディアとともに変化してきたということです。まず言語が登場し、それを何か木に刻んだり石に刻んだりし、印刷術が普及したのはほんの最近のことです。それがあっという間にデジタル化し、さらにAIの時代になっている。どういう媒体でわれわれが言語と接するかということが、時代によって全然違い、それによってわれわれの言語との付き合い方も変わってくるわけです。
それを整理し、可能であれば、言語にかかわる人間が、社会における言語の暴走みたいなものを上手く食い止める方向性を提示できるというのが、望ましい姿かなという気がしています。
原田 あっという間に時間がたってしまいましたが、非常に実り多い、またこれからの展開につながるような重要な芽をたくさんいただいたかと思います。
英語教育のこと、そして言語の問題は、身近な、例えば空気のようなところがあって、普段はあまり気にしなかったり、あるいはごく簡単に解決できるように考えたりする風潮があるように思います。実際、英語も日本語も、言語はしなやかで柔軟性があり、捕捉するのは難しいかもしれないけれども、そう簡単になくなったりはしない。しかし、そんな空気のような存在も、ひとたび致命的な形で汚染されれば、それは人間社会にとって取り返しのつかない問題になります。
そのことについて、まずは私たち一人一人がしっかりとした意識をもって臨むことが必要になりますね。読者の方々の多くが、英語に、そして言語の問題に関心を持っていただければと願っています。
今日はどうも有り難うございました。
(2025年3月19日、オンラインにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2025年5月号
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