【特集:英語教育を考える】
若澤 佑典:創造・変容・総合──共に英文を読むことの原風景へ
2025/05/08
文学部英語という場で「それでも『読む』という行為にイエス」と言ってみる
英語学習の宇宙は、広大かつ多様である。何を使って、どんな活動を行い、誰とどこへ向っていくのか、「英語」という枠組みを定義していくところに、英語を教えることの自由さ、楽しさ、そして創造性が隠れている。文学部英語のコアは「英文を読む」である*1。これはいかにも文学部らしい理念とも言えるし、少し古めかしい響きもする。ソーシャル・メディアや電子書籍の普及によって、読む行為をめぐる媒体は大きく変化し、そもそも自分で文章を読まずとも、人工知能が内容をまとめてくれたり、翻訳ソフトが別言語に置き換えてくれるという世界に、私たちは生きている。紙の本を手にして、辞書を引いて、その内容について考えるといったような、従来の「英文を読む」というフォーマットは、加速度的に意味を持たなくなってきた。
読書をめぐる従来の諸前提は、古びてしまった。読書をめぐる従来の諸ツールや訓練法も古びてしまった。しかし、これらは「読む」という行為そのものが、あるいは大学の英語教育という場で「読む」ことを扱うことが、それ自体として古びてしまったことを意味しない。こうした環境変化を契機に、読む行為の別様な価値が生成していると、肯定的に捉えることもできる*2。キーポイントは5つである。
(1) 読書は協働作業であり、テクストを媒介として、学生は自らを知り、クラスメイトを知る。英文を読む教室は相互了解が生まれる「遭遇の場」である。
(2) 読書とは情報処理プロセス以上のものであり、英語の文章の中で、読んでも分からないこと・意味不明なものの前で右往左往するところに、隠れた価値がある。
(3) 読書とは、書き手の意見や視点の理解のみならず、自身の思考スタイルを「発見」し、書き手と読み手の相互作用の中で、読み手が変わっていく「変容」のプロセスを含んでいる。
(4) 読書とは全身運動であり、眼球や指先の単純運動に留まらないし、われわれは「頭のてっぺんから足のつま先まで」を使って、ことばと相互応答している。
(5) 未知の文章を読んでいると、これに触発されて自分自身も何かを話したくなったり、書きたくなったり、他の人の反応を聞いてみたくなったりと、読む行為が他の行為を連鎖的に生み出していく。すなわち「読む」行為とは「つくる」行為である。
発想と運用の仕方によって、「読む」行為を中心に据えた英語授業は、古き過去の遺物から、現在のフロンティアを疾走する存在へと変容していける(のかもしれない)。
筆者はイギリス思想史を専門とし、学部の専攻は倫理学であり、大学院ではイギリス地域文化研究に学び、アメリカに留学してから、イギリスの大学院で博士号を取得したという(文学部の英語部門内では)独自路線の英語教員である。その背景を踏まえて、「英文を読む」行為にコアをおく文学部英語について、その意味をどう「価値言語化」できるか、日々の教壇での経験を語り直してみたい。
高校英語・文学部英語にあるギャップとその創造性
一般的にギャップは埋めるべきものとされている。隙間があって、そこで躓いてケガをしてはいけないからだ。ただし、躓きが気づきを生むこともある。階段の踏み外しの如く、そこに「あるはずだ」と思ったものがそこになく、あるいはないはずだと思っていたものが、逆にそこにあるといったような、「想定とのズレ」は思考/試行の源泉だ。
文学部の英語授業は多種多様であるが、文学作品、あるいは人文社会分野「各領域の英語原典」をテクストに採用しているクラスが「一定数ある」ことは、その独自色として挙げられるだろう*3。文学部の英語で使われるテクストは、必ずしも「高校を卒業したばかりの、日本の大学生を想定読者とする」ものばかりではない。ここに当該ギャップのエッセンスがある。文学部英語で使うテクストの中には、同じ大学生でも英語圏の大学生を想定読者とした入門書もあれば、18世紀や19世紀の文筆家が、同時代の読者を想定して書いた人文分野の英語原典もある。(完全に達成できるかは別として)大学の英語教室において、学生たちは「本来、自分には向けられていなかったはずの言葉・思考」を受け止める経験をしている。
英語原典がテクストの場合は、そもそも高校修了レベルの英語運用力で、「全てが理解できるか」は分からない。翻って、そういった類いのテクストを使う英語授業では、必ずしも全てを理解しなくてもいいし、全部「は」分からないという体験の中から、自分なりのことばや思考、自身の抱える「?」の具体的言語化が促されていく。大学の英語授業で、例えばディケンズの小説やラッセルの哲学エッセイを用いることについて「これは英語の授業であって、英文学/哲学史の授業ではない」という反応は絶えず存在するだろう。ただし、こうした英語原典は特定分野の知識を提供する以上に、「ワケが分からない」という鮮烈な迷いの体験を学生たちに提供してくれる。なんだかよく分からないもの、そもそも自分がどれだけの時間をかければ理解できるか、即座に見切れない文章と対峙する。自分とは違う時空間から発せられた文章の前で、ただそっと立ち止まり、そこに声をかける。分からないこと、一見意味不明な文章というのは、必ずしも読者に不快さをもたらすものではない。英文を読む共有体験を通じて「ワカラナイはオモシロイ」と実感してもらうことも、英語原典を使っていく良さだ。
このように同じ「英語」という名前にもかかわらず、高校と大学ではその意味内容がある程度、あるいは全然違う。この驚きは実のところ、異文化体験のコアに通じている。同じ「言葉」であるはずなのに、英語の文章を単語レベルで日本語に置き換えても、それだけでは日本語の文章にはならない。英語には英語の、日本語には日本語の、それぞれ固有の論理やレトリック、叙述の流れ/語り方があることに、2言語の往復を通じて学生は気づかされる。各々、有機的なつながりを持った世界が、2つ(あるいはそれ以上)存在していることに気づくこと、この発見の過程が高校英語と文学部英語、英語という言語文化と日本語という言語文化のギャップの体験という形で、重なり合っている。
同じ科目名なのに、高校とは「なんだかやっていることが違う」という英語クラスの体験は、大学1年生を対象とした総合教育の広い文脈に置いて、その意味を考えることもできる。大学入学時、新入生の頭の中にある学問マップは、高校の科目分類に基づいている。大学入学後、履修登録のプロセスを経て、例えば地域文化論や論理学、文化人類学といったように「こんな名前の科目もあるんだ」と、新しい科目のラベルを知り、頭の中にある知の全体像を更新してもらうことが重要である。新しい科目名との遭遇にあわせて、馴染みのある科目名について、その指示対象の変化、知っていると思っていたラベルの意味内容が「変容」していく経験も大事である。総合教育を通じた「変容」のプロセスの中で、英語科目を通じたショックというのも、大学における学びの全体構造の中で更なる意味を持つ。
2024年度より「文学部英語フォーラム」(=文学部で英語を担当する専任者および非常勤教員の交流の場で、毎年3月に開催)を基盤として、塾内一貫教育校(現時点では慶應義塾高校、慶應義塾女子高校、慶應義塾湘南藤沢高等部)の高校の先生たちと、個人レベルで交流の機会を持ち、高校英語の現場で何が課題となり、大学の英語授業に何を期待しているのか話を伺っている。高校と大学の交流というと、どうしても制度的な共通指標や評価基準の形成、教科書や授業内容の連続性担保が焦点となりやすい。しかし、企画担当者=筆者が力点を置いているのはその逆である。何か新しく制度や装置を作るのではなく、お互いを知らねば気づかない「すでに存在する、高校英語と文学部英語の隠れたつながり」を発掘する。大学のシステムを高校に持ち出したり、高校のメソッドを大学に移植するのではなく、高校でしかできないことを高校で、大学でしかできないことを大学で、大学ではできないことを高校で、高校ではできないことを大学で、といったように、互いの異質性と断絶性を肯定的に読み替えて、高校英語と文学部英語の「補完的な協働関係」を形成していけないか模索中である。
2025年5月号
【特集:英語教育を考える】
カテゴリ | |
---|---|
三田評論のコーナー |
若澤 佑典(わかざわ ゆうすけ)
慶應義塾大学文学部准教授