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【特集:英語教育を考える】
若澤 佑典:創造・変容・総合──共に英文を読むことの原風景へ

2025/05/08

英文を前にして「共に迷う」経験の場を

よい英文はわれわれ読者を「創造的な沈黙」へと誘ってくれる。教室で英文を読む、学生の1人を想像してほしい。文章をサッと目で追いかけても、いったい何が書かれているのか、その学生はパッといい感じのフレーズにまとめることができない。うまく言語化はできないけれど、気になるモヤモヤが彼/彼女の胸の内に残り、もう1度だけ英文を読み直すことにする。1度目はスピーディーに文章を読み進めていたけれど、2度目だと謎めいた単語が気になったり、不思議な言い回しに遭遇したりで、所々、目の動きを止めてオヤっと考え込んでしまう。ハッキリとはしないけど、読む中で何かが自分の中に滞留している。同じ英文を読んでいる人も、自分と同じポイントが気になっているのか、全く別のところに躓いているのか。あるいはスラスラ読めているのか、学生は気になり、周囲に話しかけてみたくなってくる。英文の謎を会話のタネにしていると、英文理解のコアとなるキーワードやイメージが、ふと浮かんでくる。なんだか自分も文章を書きたくなってくる。まずは日本語で、しかし頑張って英語で何かを書けば、予期しなかったところからも、何かレスポンスをもらえるだろうか。謎めいた英文を前にして、頭と心がグルグルと渦巻き、口から発する言葉・指先を使って紡がれる文字も右往左往し、その渦の中に絡みとられるように、いろいろな仲間が集まってくる。この一連の学びのイメージが、英文を媒介として生まれるつながりの風景、協働的な読む教室の姿だ。

現代の社会環境や学びの空間は、教える側にも学ぶ側にも「沈黙する」機会をなかなか与えてくれないようだ。話題を振られて、考えを聞かれて、ジッと黙っているのはすわりが悪い。とかく何かを「すぐに」言わなくてはならない、声を発せないことは場に貢献できず、後ろめたい気すらする。しかし、即時に当意即妙な反応ができるのは(素晴らしいことではあるけれど、すべての状況において)理想とされるべきことなのだろうか。すぐに口から出てくる言葉は、すでに誰かが言った言葉か、自分が過去に何度か発してまとまりがついた言葉であることが多い。自分なりの新しい表現や、目の前にあるものをかみしめた応答には時間がかかるし、時にラグを生む。沈黙とは新しい何かを生み出すための、創造的な混沌を内包している。難解なテクストを前にして、あるいはクラスメイトのコメントに耳を傾ける際、そこで実践されているのは「待つ」ことの実践であり、沈黙を心地よいものとするために「相手を信頼する」ことである。「この人(たち)の前であれば、ゆっくり考えていても、気まずくならない」、とりあえず何かゆっくり言ってみよう、という信頼性が、教室の中で担保できればしめたものである。

また英文を読む行為は、全身を使った運動である。黙読に留まらず、テクストの朗読や、あるいは戯曲の実演をイメージすれば、その全身性がより実感できるかもしれない。テクストをどう手に持つか、どんな姿勢で声を発するか、視線はどこに向けるか、などなど。文学部英語の枠組みを離れると、慶應義塾の日吉キャンパスでは英語教員が主体となって「身体知」をめぐる研究・教育プロジェクトが2005年前後から、大学の教養研究センターを母体として実施されている*4。その趣旨と成果は武藤浩史『「チャタレー夫人の恋人」と身体知:精読から生の動きの学びへ』(筑摩書房、2010年)の最終章にまとめられているが、読む行為を動きの中で捉えることが、学生によるテクストの書き換えやパフォーマンス、創作活動を媒介していることが注目に値する。クリティカル・シンキングにおいて、読むこととは考えることであるが、こうした全身の動きに着目すると「読むこととは、つくること」であることが浮かび上がってくる。

さらに、身体知の視座から照射した時、英語の文章を読むこと(あるいは読む行為一般)は、「健やかになる/健やかである」ことに向かっている、とも表現できる。一緒に読むこと、動いて読むことは、不安を脇に置き、言葉の手触りを感じて、元気になる/元気である/元気になっていく自分を感じていくことでもある。

英語授業を契機として、大学教員も変わっていく

「英語」という授業の枠組みは、大学の多種多様な科目の中でも、最も自由で最も広大な領域をカバーするもの(の1つ)であるはずだ。究極的には英語で書かれてさえいれば、英語授業で「読む」対象になりうるのである。大学教員はそれぞれ専門分野があるが、「英語」という科目枠組みは、教員を専門の外部へと連れ出してくれる。英文学でなく英語を、イギリス哲学ではなく英語を教える中で、担当教員がどんなテクストを読んでいくのか、何について話すのか、「研究者と英語教師」という2つのあり方を1人の身の内に内在化させることで、教員もまた変わっていく。

教員自身が自らを「変化に開く」という点で、2人以上の教員がチームで1つの授業を教えるということも、大学の英語実践の場に新たなダイナミズムをもたらすはずである。そもそも慶應義塾のリベラル・アーツにおいて、協働授業の試みは20年弱の歴史を持っている。日吉キャンパスの教養研究センターにおいては、リサーチの技法を複数教員の担当で学ぶ「アカデミック・スキルズ」が、2005年から開講されている。こちらは日本語で行われる授業であるが、その英語版クラスも2011年から18年までは、3人から4人のスタッフで運営されていた。

2024年度からは大学のGICセンターが「分野の異なる2人以上の教員が、1つの教室の中において、英語で授業を行う」ことを日吉キャンパスで実施している*5。こうした試みも、先述した教養研究・教育実践とのつながりで考えると、総合教育のなかにある英語教育、あるいは英語を読むという行為の総合的な位置づけが見えてくるだろう。半学半教という言葉が表すように、英語を読むことで学生たちだけでなく、教員たちもまた「変容の主体」となっていくのである。

(註)

*1 文学部ウェブサイトの外国語教育ホームを参照のこと。https://www.flet.keio.ac.jp/language/english.html

*2 英語に限らず広く「本を読む」という文脈で論じることも可能だ。そちらの方向性については、若澤佑典『文芸共和国の歩き方:書棚を遊歩するためのキーワード集』(慶應義塾大学出版会、2024年)を参照のこと。

*3 ぜひオンラインの授業シラバスを眺めてほしい。https://gslbs.keio.jp/pub-syllabus/search

*4 例えば教養研究センターの紹介ページを見よ。https://lib-arts.hc.keio.ac.jp/education/culture/knowledge/

*5 GICセンターのウェブサイトに説明がある。https://www.gic.keio.ac.jp/about/index.html

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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