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【特集:英語教育を考える】
座談会:AI時代こそ大切になる"ことば"の学びとは

2025/05/08

AIとの共存から考える英語教育

阿部 皆さんのおっしゃることに私も全く同感です。われわれが最初に言語で感じるのは、たぶん外国語の音だと思うんですね。つまり、読めないものを読んで感動することはあり得ないけれど、音は全く意味がわからなくても聞こえるので、何かきれいに聞こえたり、違和感があることで興味が湧いたりする。だから、音を通してまず言葉に出会うことが大事かと思います。その後、いろいろな方法で好きになったり、あるいは興味を持ってその言語と一体化し、どんどんその言語に入って身に付けるというプロセスになる。

一方、今後を考えると、われわれの基本的な語学との向き合い方は変わってくるかもしれません。英語への一体化の部分をAIが代わりにやりつつあるからです。一切その言語に興味を持たずにその言語を使うことができるようになるかもしれません。

すると、今後、むしろ言語とどのように距離を取るかも大事になってくると思うんですね。機械を媒介にして言語と付き合わざるをえない時代が訪れると、AIが果たして機能しているかを判断する、一種の管理者のような視点から言語と付き合うモードも身に付ける必要が出てくる。

そこで言語ごとのメディア性の違いということも生じます。例えば今日の座談会の日本語の文字起こしをすると、相当直さないと読むものにならないと思うんです。でも、コミサロフさんの英語はたぶんそのまま意味が通ります。

つまり、日本語は相手と上手く呼吸を合わせてしゃべろうとする傾向があり、そうするとわざと崩してしゃべりがちになる。立て板に水はむしろ変に聞こえる。一方、英語はちゃんとした構文でしゃべらないとむしろ変です。英語は「言」と「文」が近いのです。書き言葉と話し言葉のレトリックに乖離が少ない。ところが日本語は、しゃべることに関して、フォーマルな約束が未だに十分に定着していない。すると話し言葉と書き言葉にギャップが生まれる。そういう環境の違いは重要です。

こうした状況を俯瞰できる視点というのは、言語と距離を持たないととれないと思うんです。そういう意味では、第3言語をやるのはすごく面白い。別に習得できなくても触りだけ、音を聞くだけでも中学生、高校生にやらせてみると「距離をとる」という姿勢ができるのではないか。

すべてをAIに任せてしまったら人間は退化するだけだし、思わぬミスが生ずるかもしれない。それを人間が上手にコントロールするという向き合い方は必ず必要になります。すると、言語に対する俯瞰的な視点が今よりも大事になるので、今後はそういう能力を鍛えることになる気がします。

原田 英語教育の将来構想を、今急速に利活用が進んでいるAIの話と、阿部さんが結び付けてくださいました。

そのAIとの共存をもう少し考えてみたいと思います。これはプラクティカルなレベルから、それこそAIと人間の言語的創造性まで及ぶと思いますが、いかがでしょうか。

瀧野 私はビジネス英語を専門にしていますが、ビジネスにおいてはAIを使うことが当たり前になってきています。それゆえ英語に関してはもう求められる期待値が変わってきている。つまり、スペルや文法を間違えると、以前は「母語じゃないから」で済まされましたが、今は「どうしてスペルチェッカーを使わないのか、粗雑な仕事だな」となりつつある。ですから、AIを使いながら英語力を伸ばしていくことはもう必須だと考えています。

2つ目に、阿部さんがおっしゃったように、これからは管理者というか、AIが作ってきた英語のアウトプットをいかに利用するか、あるいはAIにどういうプロンプトを出すかという力が求められます。しかしAIが出してきた英語を評価するのはかなりの英語力が必要です。だからある意味では求められる英語力がさらに高くなっていく可能性が大きい。

すると、AIを使いこなせるレベルまで英語を学ぶ人と、そこまで英語を学びたくない、必要ならAIに任せればいい、と考える人に分かれると思います。私はそれでもいいと思うんですね。今、英語は皆がやらなければいけない苦行のようになっている部分もあるので、AIを前提に好きな外国語を選んで学べる時代が来るかもしれないと思います。

もう1つ、私自身もそうですが、今までは時間をかけて推敲して、ネイティブの方にチェックしてもらわないと出せなかったような完成度の英文が、AIと相談することによって10分でできたりする。ですので、これはある意味では母語ではなく英語を使っている人たちが自立していくツールとして価値があると考えています。

このような変化の中で、今までとは違うタイプの英語の訓練を模索する時代になってきたと思っています。

山本 今の話はすごく面白いと思う反面、ズルさというか、近道を探すことを定着化させてしまうこともあるのかな、というのが高校以下の教員の感覚としてあります。逆に、世界の変化のスピードがものすごく速くなっていく中、そんなことは言っていられない、とも思うのです。

英語を初めて学ぶ子が、いつもGood ばかり言っているからもう少し違う単語が使いたいな、という時にAIを使うのが悪いかと言われると悪くはないですが、線引きが難しいので、悩ましく思っているところです。

AIを使わないという選択

コミサロフ 英語教育の一環としてAIを使用するという考え方と使用しないという考え方の間には緊張関係があります。AIを使って、例えば学生は特定のトピックに関するテキストを生成し、それを読んで練習することができます。AIはまた、ロールプレイの練習を行うための会話のパートナーとして使用できます。

米国の教師がよく使用する、AIを使った便利な教育用ライティングツールも多数あります。これは学生にライティングを3つの段階、事前ライティング、エッセイの執筆、編集に分けさせます。多くの教師は、学生が書くアイデアをブレインストーミングする際、事前ライティングでAIを使用することを許可しているようです。

しかし、エッセイ執筆の中心となる、学生が実際に自分の考えをまとめて発展させ、表現する段階では、ほとんどの教師は学生に自力で行うよう求めています。そうでなければ、それは不正行為とみなされます。これは、英語教育におけるAIの構築についての1つの方法です。

ただし、私は別のアプローチをとっています。学生にAIの使用を許可していません。学生には、間違いをしてそこから学んでほしいと伝えています。学生が間違いをしたら、それについて話し合い、正しい文法とそれが使われる理由を特定するようにします。学生は、特定の文脈によりよく適合する同義語を特定することで、より適切な語彙の選択を学ぶこともできます。

そうすることで、学生はAIにすべてを任せるのではなく、自分の英語を修正する方法を学び、優れた書き手になることができます。これは重要なことです。なぜなら、人間は最終的にAIが生成したものをチェックし、その内容が本当に適切で正しいかどうかを確認しなければならないからです。

今朝ペンシルベニア大学の学生新聞で見つけた、短い逸話を1つ紹介します。ある学生が、自分のクラスではAIに頼りすぎているために学生が考える能力を失っているという意見記事を書きました。例えば、授業中に教師が質問をすると、学生は教師に答える前にその質問をAIにかけます。しかし、そのことによって学生は自分のアイデアを生み出し、それについて率直に議論する機会を失っているのです。

これらの理由で、私は個人的には授業で学生にAIを使わせていません。

阿部 おそらく成長段階みたいなものでの線引きが大事だということかと思います。つまり、飲酒や喫煙と一緒で、ある程度のラインというのがあり、あまり若年のうちにAI依存が高まると問題が生じがちであると。ただし、実際の社会ではAIを使わざるを得ないので、逆にAI音痴では困る。そのバランスをどこでとるかということかと思います。

私はモチベーションが結局は大事になるのかと思うのです。われわれは「わざわざ」言葉を使う。自動車ができたからといってわれわれは走ることをやめたわけではないですよね。それと一緒で、われわれはおそらくAIがあるにもかかわらず、わざわざ自分で書いたりしゃべったりし続けると思うんです。

その時に、わざわざしゃべることの喜び、というか、わざわざ文章を書いたり、本を出したり、しゃべったりする時の、わざわざするという気持ちを知ってほしい。私も古いタイプなのかもしれませんけれど、これが授業で私が教える時のモチベーションになっている気がします。

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