【特集:科学技術と社会的課題】
座談会:文・理を超えてこれからの課題にどう向きあうか
2024/08/05
社会と科学技術を結ぶ場としての大学
駒村 最後の議論になりますが、「よりよい社会」を目指す上で、社会と先端科学技術を結ぶ場としての大学の役割、人文知の役割は何か。大学だけではなく、行政、法曹も含めてよいかと思いますが、いかがでしょうか。
小久保 大学、特に総合大学は非常に貴重な空間です。慶應の場合、理系と文系はキャンパスがわかれてしまっていますが、日吉に視点を移すと、「文系だ、理系だ」と自己規定してきた学生たちが、サークルなど勉強以外の場で文理関係なく1つの目標に向かって協力する空間があります。これは非常に重要なプラットフォームとなり得る力を秘めているのではないかと思います。
研究という観点から見ても、情報工学をやっている隣りの教室では法学のゼミをやっていたり、ということもある。本来なら出会う機会もない人と雑談や研究の話をしてみたりできる。実は、そういう地道な対話の積み重ねこそが、総合知と呼ばれている概念を育て、涵養していくのではないか。こうした可能性を潜在させていることが、総合大学という「場」の非常に重要なところだと思います。
慶應には、こと私を育てていただいた、リーディングプログラムという制度がありました。これはMMD(修士号を2つ、博士号を1つ)を取ろうという文理融合のプロジェクトです。
私は、3年間、三田の法学研究科と矢上の理工学研究科に通い、法学の修士論文を書いた後に理工学の研究を終え、理学修士を取りました。ある種、「ある程度の文理の学知を修め、両方の分野の言葉で語れる人間」を鍛えて、それを修士号という形で証明する制度だったのかと思います。
また、リーディングでは、文系、理系の学生や、その指導教授が一堂に会し、「日本の少子高齢化はどうする」というような問題を、分野の垣根を越えて議論しました。そうした非常に稀有な空間で学ぶことができたお蔭で、今、「私は神経法学が専門です」と自信を持って自称できていると思いますし、そうした文理融合の研究が評価され、日本学術振興会育志賞をいただくことができました。
たしかに、ELSIは、プロジェクトごとにチームが結成され、そしてプロジェクトが終わると解散して消えていくわけです。
それではELSIをやった人材の再生産が上手く起こらないし、経験知が蓄積される場所もほとんどない。でも大学は、その空間になり得ると思います。例えば教員はそこに残るので、人材の再生産ということも担えるのではないでしょうか。
駒村 若い学生の挑戦する気持ちを、大人たちの側が受けとめなければ、それこそ人材育成の継承ができないわけですよね。
小久保 そうですね。学部生に話を聞くと、文理融合をやりたいという人は実はたくさんいるので、想いが届くと良いなと思います。
SF的想像力から考えられること
八代 今回、僕は堅苦しい話ばかりしていましたが、最後にSFの話をしたいと思います。
今日的な話題で考えるのであれば、最近、同性婚という話が活発ですが、同性カップルが子供を持とうと思うと、今は代理母(サロゲートマザー)を使うしかないわけですよね。
その文脈で言うと、1980年代のSF作家でジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという人がいて、その人が書いた作品に「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」という短編があります。
宇宙飛行士が事故でタイムスリップしてしまう。タイムスリップした先が、かなり未来の地球圏で、助けてもらうとそこには女性しかいない。男性が感染症により生殖能力を失ってしまい、女性だけが生き残ってしまうという世界になっています。
今の時代、女性の場合、クローン技術を使い、それこそiPS細胞から生殖細胞をつくり、もう単純な遺伝子のコピーではなく、遺伝子の組み換えも起こるような別個体をつくることもできる状況になっている。そうであれば「女性だけでもいいよね」という話も当然出てくるし、逆に人工子宮が実現すれば、「男だって別に女性を苦しめずに同性同士で子どもをつくれる」という話も出てくる。
そこには生命倫理の問題もあれば、人口学や、経済学的な社会科学の問題や社会の持続性という問題も出てきます。
そういう話をトピックにして、ELSI的な話を展開しながら、それぞれの専門の領域から知恵を出し合い、「こういうことやったらできるんじゃない?」「いや、でも、それは許されることではないだろう」というような議論が闊達にできるような場所が慶應にあってほしいとも思います。
かつて福澤先生が実学という言葉を残されていますが、空想ではあるけれど、それが実際の社会に使われるような事象を生んでいくような場所でもありたいと思ったりします。
牛場 スタートアップは私もやっていますが、社会の実装面において、科学技術を経済的に持続可能な形で流通させようとすると、いろいろなフリクションが起きる。皆が違う価値観で動いていて、脱炭素、エネルギーの問題とか、経済安全保障の問題で、様々なステークホルダーが議論し解決しなければならない問題がたくさん出てくる。
流動がそういう問題をどんどん生み出しているからこそ、全然違う立場の人の「あの人、何でああいう主張しているのだろう」ということに、共感や理解ができる懐がないと、流動層における制度の設計や実装はできなくなるのです。
だから、表面的な実装のところで言葉になっていない、背後に持っている本人の価値観をわかる力が一層求められるのではないかと思います。
大学においても、相手の懐に飛び込み、相手の言葉がどんな体験から来た結果なのかを学ぶことが、いつの時代も、あるいはこれからの時代はなおさら求められてくるかと思います。
今までも皆わかっていて、リーディング大学院もつくり、留学制度もつくり、2年生の時に別の学部にまたぐ制度も慶應にもありますし、いろいろ違うところから物事を俯瞰で見たり、自分の中に内在化できるチャンスを制度としてつくっていると思います。しかし、リーディング大学院がなくなってしまったように上手くそれを運用しきれない難しさがあると思います。
昔からずっと大学はユニバーシティで、共同体としてのモザイク模様、万華鏡であることで人を豊かにする理念は今も息づいていると思います。しかし、われわれ自身が、制度としてどう設計し、評価するかという価値観をそこに組み込まないと、わかりやすい軸での評価に押し負けてしまう。
これからの大学を担う人たちは、その評価の軸を、どう良識的に設定するかが問われているとも思います。
文理融合の契機として
四元 ELSIに端を発した議論ですが、私は、これからは、小久保さんのような文理の垣根を越えた有為な人材がどんどん出てきて未来を担ってくれることが何より重要だと思っています。そして、そのために大事なことは教育ではないかと思っています。
政府が盛んに文理融合とか総合知を推奨していて、私もそれ自体は良いことを言っているなあ、と思いましたが、中味がよく見えてこない。会議に文理両方の専門家を入れるだけでは従来と変わりません。真の文理融合を図るとしたら、教育を変えていくしかないのではと思いますが、どうでしょう。
皆さまおっしゃるように、文理が教育の早い段階から分離していて、私もこれが問題ではないかと思っています。わが身を振り返っても、恥ずかしながら、理科や数学は高校3年時点の思考力を、それ以後超えられません。
法律業務をやっていると、例えば、技術に関する紛争にいくらでも遭遇します。わが身の科学リテラシーの低さを嘆きつつ歯を食いしばって取り組みますが、本当に科学技術への理解力はあらゆる職業で必要になります。
高度に専門化していく社会では、誰もが専門領域を持っているべきではありますが、一方で、文理の壁の前に思考停止するのではなく、その垣根を軽々と乗り越え、相手の言っていることをわかりあえるくらいの理解力は持てたらいいと思います。
牛場さんのご研究によれば人の脳には高い可塑性があるということですので、人間が持つ知の可能性も信じたいと思います。
人間の知を文理で分けてしまってはもったいない。誰もが文理両方の知を追い求められる。慶應義塾大学のような総合大学は、まさにそういうものを提供できる場ではないかなと思います。
駒村 大学は、先ほどの流動と根源の例で言いますと、学生に対し、知の根源を考えさせる仕組みとしてあると思います。
大学は、そういう根源的知を流動する世界からの挑戦に晒し、根源を問い直す契機を学生に与える。こういう循環が必要なのだと思います。しかし、最近、どうもそういう循環がない。ただ学生を固定化されたディシプリンに囲い込んでいる気がします。もう少し学生を少々危なくても流動の層に連れていく必要があろうかと思います。
粗っぽい比較になりますが、理科系の人たちもいろいろなディシプリンを持っていると思いますが、解決すべき問題が共有されれば、ディシプリンに関係なく技術を持ち寄って解決するという風土があるように感じます。他方で、人文・社会科学では、そもそも問題の切り取り方自体が分野によって多種多様です。
このような差異がもしあるのであれば、理系・文系の双方にとって学ぶところは大きいのではないでしょうか。理科系の人にとっては自然という対象そのものは単一であるかもしれないけれど、それから発生する問題には、いろいろな切り取り方があるということがわかるし、文系の人たちは、方法論は異なるとしても、問題をどうにかして共有し、1つの課題としてこれを設定して、解決のために人文社会系の知を結集・総合する構えをとらなければならない。
恐らく、そのような知的冒険やディシプリンの再編を可能にしてくれる1つの契機になるのが科学技術なのだと思います。
本日はお忙しいところ活発な議論を有り難うございました。
(2024年6月27日、三田キャンパスにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2024年8月号
【特集:科学技術と社会的課題】
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