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【特集:科学技術と社会的課題】
座談会:文・理を超えてこれからの課題にどう向きあうか

2024/08/05

政策形成への懸念

駒村 四元さんはいかがですか。

四元 自分が研究をしているわけではないので、この分野というのが特にあるわけではないですが、自分が社会人の第一歩を公務員の末端から始めたので、つい、社会課題への国の対応は大丈夫かという視点で眺めてしまいます。

一例として先ほど申し上げたエネルギー問題について言えば、脱炭素などはグローバルに人類として考えるべき課題ですが、エネルギーの安定供給は国民生活に直結し国の安全保障に関わる問題でもあります。時に両立し難い社会課題に目を配りながら世界情勢、社会情勢、政治情勢も見つつ適切な政策判断をしていくことは至難で、私も他人事でなく悩ましく思っています。

また別の例ですが、昨今スタートアップ育成が大事となると、ワーッと皆がスタートアップ支援策に走る、GXが大事となると、GXというキーワードのもとに巨額予算が付くといったことが見られます。肝腎なのは中味で、中味あっての予算のはずですが、どうも最近政策形成がいささか乱暴ではないかと思われることがあります。

社会課題に関しては、しっかり課題を把握し、地に足をつけて丁寧に対応していかないと、今の政策が、10年、20年、もっと先の日本をつくっていくことになるので、日本の将来を過つことにもなりかねません。将来に対する責任を今の私たちが負っているという責任感も大事ではないかと思います。

駒村 皆さんのお話を伺っていると、科学技術が社会や人間に危機をもたらすというより、むしろ社会のほうが病んでいるといいますか、そのことを科学技術の進展が暴露しているような気がします。

「知の民主化」という話がありましたが、民主主義は結局、大衆支配であり、大衆支配は衆愚だというのは、アテネの昔からある自明の真理です(笑)。小久保さんも問題提起されていましたが、情報技術がゆがんだ形で使われているのは、使い手である人間の原罪のようなものを暴露していくような側面がある。そうなると、「人間とはいかなる存在か、何のために存在するのか」という哲学的問題に収斂していくのは、宿命的なことですらあると思います。

他方で、四元さんが提起された、制度や行政の問題ですが、流動にいかについていくかを考えるのに精一杯で、しかも効果や帰結をフォローアップすることもないという、日本の官僚行政一般の問題が技術政策の領域でも表れているということかと思います。

拡大するELSI

駒村 ここで視点を少し変えますが、冒頭で触れたように近時、日本だけではなく、世界的にELSIという営みが盛んになっています。科学技術を、ある種の社会的統制の下に置こうという発想です。

最近ではRRI(責任ある研究・イノベーション)というものもありますが、このような試みが進み、私も小久保さんも、JST(科学技術振興機構)から助成をいただき、脳科学技術に対するELSI活動をしています。ELSIが最近強調されてきた背景について、四元さんいかがでしょうか。

四元 一般にELSIは1990年のヒトゲノム計画の際にアメリカで始まったと言われますが、日本ではどうかと言いますと、5年ごとに出される科学技術基本計画が今、第6期まで来ています。平成8(1996)年の第1期科学技術基本計画は、今振り返ると実に素朴でコンパクトなものでしたが、そこでもすでにELSIの考えの片鱗のようなものは窺われ、第2期からは確実にその考えが計画の中に位置づけられています。

ただ、E、L、S( 倫理的、法的、社会的)という言葉が明確に出てくるのは第3期の科学技術基本計画(2006年)からです。新たな科学技術についての社会的な影響を科学者の目だけではなく、E、L、Sに象徴される人文科学や社会科学により、多角的・多面的に見ていこうということだと思います。

ただ、その概念がどうも最近無暗に広がっているようで気になります。特に最新の第6期科学技術・イノベーション基本計画(2021年)は盛り込み過ぎで、なかなか理解が追いつきません。

読み解きますと、科学技術は誰もが幸福な社会の実現に役立つものでなければならない。そのために研究は将来の姿をちゃんと見据え、初期段階からELSI対応が求められる。それには総合知の活用が必要で、そうした人材が参画する体制の構築が必要、といった理解でいいでしょうか。最近はそのためのELSI人材の育成の必要性なども言われているようです。

ELSIは極めて大事な概念ですが、ELSIという言葉は、私はあくまで基本はまず技術とか研究と近いところで考えていくべきで、言葉があまり独り歩きし、肥大化するのは少し違うのではないかという気はします。

駒村 私も全く同感です。最近ELSIのEなどに3乗(E³)をつけるのですね。つまりethics だけではなく、経済(economy)、環境(environment)も含める。このようにカテゴリーがどんどん増え拡張している。

ELSIで科学技術を統制するというけれど、法学、倫理学、社会学、経済学に環境学、これらはそれぞれ固有のディシプリンを持つわけです。技術を分析統制するはずのELSIの視点を整理すること自体が困難なのです。簡単に一括りにはできない。一体、人社系は何をすればいいのか、初動に難問がある。「総合知」なんて簡単に言えることではない。

四元 本当にそうですね。

駒村 だから科学技術の側と文理融合の対話をする前に、ELSIの内部で文系的知の総合化自体を議論しなければいけない。

ですので、融合人材が絶対に必要です。それなしに、ELSIという言葉を振りかざすだけですと、ELSI運動は納税者の不安や要求を代弁するだけのものになりかねない。納税者の貴重なお金を科学技術に割り当てているのだからと。人文社会的学知がまとまっていようがいまいが、納税者の意見、「素人」の意見を科学者にぶつける役割を果たせばそれでいいと。

つまり、資金元である国民一般から「そんな研究は受け入れられない」「国民の理解が得られない」という声を技術の側に伝えるチャネルとしてELSIはあることになる。それはそれで意義の全くないことでありません。むしろ、加速度的に流動する科学技術の波を制度的対応に乗せるには必要な回路かもしれません。

だからといってやめよう、という話をしているわけではなく、むしろ逆で、これを「大きな挑戦」としてとらえるべきでしょう。人文社会的学知にとって、ある種の停滞や割拠的膠着状況を乗り越えるチャレンジになると思います。

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