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【特集:科学技術と社会的課題】
座談会:文・理を超えてこれからの課題にどう向きあうか

2024/08/05

流動と根源という2つの層

駒村 次に、今後どのような技術がどういう社会的問題をもたらすのか、最も気になるものをご自分の専門でも専門外でも、挙げていただけませんか。

牛場 1つは自分の研究の中心である神経科学がAIと結びつくことにより生まれてきたブレインテックやニューロテクノロジー、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)についてですが、脳の状態を知るということは、昔から人間の根源的な興味の1つだったと思います。古代ギリシャの時代から、「心とは何か、感情とは何だろう」ということが哲学の視点から論じられてきたわけです。

だから、脳と機械、AIが融合して、治らなかった病気が治ったり、心のトラブルがテクノロジーで解決するかもしれないという新しい医療への期待は、一方でそれを追究していくと、われわれの心とは何か、感情とは何か、意思の発露とは何かを考えることになる。つまりどこまでその人自身が自律的にやっていることなのか、ということを考えることにつながると思うのです。科学技術が進展すればするほど、そういったアルカイックで根源的な興味に立ち返るような、大きなダイナミズムも感じています。

現在、AIの計算が飛躍的に速くなり、技術革新のスピードは上がり、それを社会実装させるためのスタートアップも、5年でエグジットしましょうというスピード感です。このように科学技術の分野はどんどんスピードアップを促される側面があります。

しかしその一方で、人類は「人とは何か?」という古典的な問題を、昔からずっと手を替え品を替え考えているのかなと感じるのです。何かものすごいスピードで動いているものと、まったく動いていないようなものが共存している不思議さを感じています。

もう1つ、さらなる興味としては、自分の研究の中核を担っているAIそのものにあります。AIは計算が爆発的に速く、物をつくるところでも活躍し、国をまたいで人がコミュニケーションする言語の壁など、ありとあらゆるキャズム(溝)を超える。

しかし、そういう便利さの裏側で、計算のために大量にエネルギーを使い、CO₂も含めて環境に多大な負荷をかけることになる。これをどうするのかという問題には割と蓋をされているのが現状です。四元さんがおっしゃった原子力や脱炭素の問題とAIの話は、とても関連があるのにあまり語られない。

こういう問題をどのように俎上に上げ、解決や緩和に至る総合知をどうつくっていけばいいのか。対話をして合意形成の仕方を構築しないと、内容が複雑過ぎ、多面的(キメラ的)過ぎて、技術発展のスピードに全然追いついていかない。そこをどうしていくかということはものすごく重要なフェーズだと思います。

駒村 今の話で重要だと思ったのが、「流動する部分」と「根源的な部分」という2つの層です。われわれが直面する社会的課題を検討する際に、これら2つの層をどのように位置づけるかが大事になると思われます。

とにかく流動に追いつかなければいけない。セキュリティの確保や市場の整備といったリアルな観点から社会や政府は対応しようとするわけです。他方で、ご指摘にあったような古代ギリシャからの古典的な哲学的・思想的問い、つまり根源的な問いが再問される。社会の知的資源が、流動に追いつくことに集中投下され、根源的な問いはややこしいから確認されるだけにとどまるところがある。

つまり、流動的課題と根源的問いの循環的な動態のどこに今我々がいるのか、流動と根源をどうやって結びつけていくかということは、学知のあり方として文系・理系を超えた共通の課題になるのではないか。

再生医療をめぐる諸課題

八代 自分の専門領域のところの社会的課題として言うと、まず、高額な医療の問題があります。再生医療というとイメージとしては臓器の再建などが強いかと思いますが、法律の範疇としては、細胞を使った医薬、最近だと「CAR-T」と言われる血液系のがんを治療する細胞を使って攻撃する療法があります。あれは3300万円ぐらいします。また遺伝子治療薬「ゾルゲンスマ」は1億円を超えます。

ただし、ゾルゲンスマを1回投与することで、今までであれば乳幼児期に運動機能を喪失してしまう患者さんが、大きくなってもちゃんと活動することができる。そう考えると、収支は成り立つのではないかという話にはなります。

ただ、CAR-Tなどで、三千数百万でアウトカムが見合うとしても、では、そうした新しい高額な医療を投入し続けることを、どこまで公的保険で費用負担すべきなのかという話があります。それは命の選別につながるのではないかという、牛場さんがおっしゃった古典的な問いにもつながってくるところでもあります。

そのように、まっとうにやっていても生じてくる問題と同時に、自由診療では科学的根拠がないような診療もはびこってしまっていて、これへの対応もなかなか難しい。

高額とわかっていて、最後の手段としてわらにもすがるつもりで受ける方もいるし、最近ではセレブリティのような人がブログなどでお金をもらいつつ宣伝するようなこともたくさん起きている。すると、それに引っ張られてやる人も出てきてしまう。

さらに、広い話で言うと、最近のインターネットやSNSを見ると、何らかの質的な担保がされているわけではない人たちが医学的な知識の普及を、YouTubeなどでやっている。そういう形である種の知の民主化のように見えても、医学的な質の担保がされていない、という問題があります。

誰もが情報発信できる状況になると、パンデミックや、あるいは原発事故後の状況下においては、非常に混乱した状況が起こります。科学だけでは決めきれない、ワインバーグが言うようなトランス・サイエンス的な、政治的なことが絡む状況がどんどん出てくる。トランス・サイエンスの中でも「専門知識を持つ者(専門家)と持たない者(非専門家)の境界をどう扱うか、決定の正統性をどう考えるか」というような話をする人もすごく出てきている。

しかし、科学的な知識を持てば、皆が話せるようになるわけではなく、それぞれの立場や経験の融和的な議論が必要であることを、科学技術社会論学者のコリンズは説いているのですが、「科学的知識がないやつはダメだ」「知識による抑圧だ」という他責の応酬による無限の循環状態に陥ってしまい、なかなかブレークスルー(突破口)が得られない。このことが原発事故、それからパンデミックを経て、個人的には閉塞感として感じています。

情報技術の課題

小久保 私はあえて自分の専門ではないところで話したいと思います。

1つ、情報技術といかに向きあうべきかという課題は、未解決であると思います。つまり、広く社会に浸透し、上手く使いこなしているように見えても、実は、様々な問題を取り残してきてはいないか。

偽・誤情報や、炎上といった情報技術のもたらした病に、投稿の削除という対処療法で対応し、事態が沈静化すれば忘れ去ってしまうことを繰り返している。その結果、情報技術が社会にもたらす根本的な課題は何なのか、それはなぜ引き起こされているのか、という本質的な問いには、いまだ上手くアプローチができないまま今日に至っているように思います。

また昨今、人の集中力の持続時間が短くなったと言われます。昔はYouTubeで10分しか持たなくなったと言われましたが、今はTikTokで10秒になったと。IT企業の主導する、テクノロジーの浸透を所与として社会が進んでしまい、その在り様を問わないまま、いつの間にか無批判に適応してはいないか。

何のためにその技術を社会に実装するのかを顧みないまま、次々と生み出される技術を、社会がただ漫然と受容しているように思えます。

情報技術は人間や社会の何を変え得るもので、それに対して何を変えるべきではないものとして守るのか。これは文理を超えて挑むべき課題の1つだろうと思っています。

もう1つ、少し総論的な話になりますが、様々な生命科学の技術を見ていると、技術の関心が測定から操作へと移ってきたという印象があります。典型的にはヒトゲノムの配列が全て解読されたのが2000年。そこから、CRISPR-Cas9(ゲノム編集ツール)によって、遺伝子編集ができるようになってきた。つまり人間についても「知ってよいのか」を超え、「変えてよいのか」を真剣に問う必要が出てきたことで、技術を巡る問題が一段深化したと思います。

最後に3点目。人間を「治す」ということから、「増強(エンハンス)する」ことに関心が移ってきたように感じます。ケガや病気から回復させるだけではなく、どこまで、人間の性能限界に迫れるのかというような話が次々と出てくる。その中で、経済力のある人だけがどんどん自分をエンハンスして、経済的格差が能力や学力の格差を再生産してしまうことにならないかという点も、社会課題としては見ておかなければいけないと思っています。

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