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【特集:科学技術と社会的課題】
山本 龍彦:大学における科学技術と人文知の交差 ── X Dignityセンター設置の背景

2024/08/05

  • 山本 龍彦(やまもと たつひこ)

    慶應義塾大学大学院法務研究科教授、グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)副所長

1. 科学技術の「意味」と大学

本年6月、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)内に、文系を軸とした領域横断研究拠点「X Dignity(クロス ディグニティ)センター」が設置された。現在の科学技術を前提とした、大学における文理融合・領域横断研究のあり方を考える上で参考になるところもあると思われるため、以下、本センターの共同代表の1人として、センター設置に至る動機や背景を紹介させていただきたい。

本センターは、AIを含む科学技術の加速度的発展により、AI(マシン)と人間、仮想と現実、国内と国際、文系と理系など、様々な境界が融解し、あらゆる事物が交差(X(クロス))するなかで、「人間」とはいかなる存在であり、またいかなる存在であるべきか、その「尊厳(dignity)」をいかに定義し、保護すべきなのかを原理的に探究することを最大の目的とする。もちろんセンターは、こうした人文社会科学的問題関心を基軸に据えつつも、あくまで領域横断研究拠点の1つであり、理系──文系/理系なる二分法自体が批判対象となりうるが──との積極的な連携を図り、科学技術の最新かつ正確な研究成果を旺盛に摂取すること、またそのあるべき発展と社会実装に実質的な貢献をなすことも企図している。また、センターの頭文字「X」は、大学=産業界=市民社会との交差(クロス)をも含意しており、学理によって社会全体に「知の連環(academic chain)」を張り巡らせることも重要な目標に据えている。

こうしたセンターが必要と考えた背景には、科学技術が、本当に人間の尊厳を重視するかたちで実装されているのか、という素朴な疑問があった。例えば、現在の情報空間は、個人の関心(アテンション)や時間が交換財として取引される「アテンション・エコノミー」と呼ばれるビジネスモデルに支配されていると言われる。そこでは、可能な限り多くのアテンションを我々から奪うため、大量の個人データから利用者の属性や認知傾向を予測(プロファイリング)し、その利用者を最も強く刺激できる・・・・・・・・・情報・コンテンツをレコメンドするためにAIが使われている。こうしたAI・アルゴリズムの利用により、我々は「刺激(レコメンド)=反射(クリック)」からなる動物実験的な広告空間の中で常に何かに急かされ、かつては非商業的な時間だった友人や家族と過ごす時間さえも商業的アクターに奪われているとの指摘がある(T. Wu)。スマートフォンの普及・発展で、2000年以降、人間の注意持続時間(average attention span)が12秒から8秒に低下し、集中力がないことで知られる金魚のそれ(9秒)を下回ったとの研究結果もあるが(K. McSpadden)、このような認知操作的な技術(神経科学的には脳幹部、脊髄に近い橋など「爬虫類の脳」と呼ばれる部分に特化して刺激を与えるような技術利用)は、はたして人間の尊厳・・・・・に配慮したものと言えるだろうか。

もちろん、科学技術自体は中立的で、悪ではない。しかし、特に日本では、その実装場面で、組織全体の生産性向上、すなわち「全体最適」のみが玉条のごとく語られ、生産性や経済的合理性・効率性を犠牲にしてまで守るべき価値とはいったい何か、という意味を巡る・・・・・根本的な議論が不足しているように思われる。それが齎(もたら)すのは科学技術の機会主義的実装であり、尊厳も民主主義も軽視された非人間的な・・・・・全体最適社会なのかもしれない。AIプロファイリングやレコメンダー・システムにより、人間の認知システムをいかに刺激し、どれだけそのアテンションや可処分時間を奪えるかという「刺激競争の場」と化した現在の情報空間──そこでは誹謗中傷や偽情報も日常的に飛び交う──は、その不吉な前兆とも言える。

近年は、脳神経科学の発展も著しく、脳とマシンを直接つなぐBMI(Brain Machine Interface)の開発も進む。無論これも両義的な技術で、思考が外部からハッキングされるリスクと常に隣り合わせのものである。かように加速する科学技術を前に、いま大学に改めて・・・求められるのは、「人間」の「尊厳」とは何かを再吟味し、これを社会においていかに具体化するのか、という意味や価値を巡る領域横断的議論であろう。本センターが推進したいのはこれである。上に「改めて」と述べたが、もともと近代型(いわゆるフンボルト型)の大学は、国家的・社会的な有用性に完全に流されることなく、人間存在や社会のあり方について自由かつ根本的に議論しなければならない──逆説的だが、そこに大学の社会的有用性がある──という考えから出発していた。近代的大学観の礎を築いた哲学者カントは、有用性を目的とする神学・法学・医学と、有用性から独立して・・・・真理探究に勤しむことを目的とする哲学が──緊張感をもちつつも──絶えず対話・協働することが不可欠と考えていたのである。

「改めて」と述べた背景には、慶應義塾自体が、物理学を「あらゆる学問の基底」、「学問の学問」に置きながら、それに対する人間の主体的「精神」を強調した福澤諭吉の創設したアカデミーであったという事実もある。福澤は、儒教のような抽象的自然論を批判し、客観的な自然科学を殊更に重視したが、その要諦は、自然科学的知見を前提にいかなる倫理と精神を確立するかにあり、福澤の関心はなお「人倫乃至社会関係」にあったという(丸山眞男)。こうみると、もともと慶應義塾には、科学技術の社会的な意味・・価値・・を領域横断的に考究し、「文明の精神」を先導しようという文化ないし伝統があったように思われる。

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