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【特集:主権者と民意】
座談会:若年層に政治参加を促すために何が必要か

2021/10/05

「多事争論」を阻むもの

堤林 その「勝ち負け」というのは昨今本当によく見られますね。実際、国政でも議会政治を単に「勝つか負けるか」のように考えている人もいるような気がします。やはりそうではなく、議会というのは共同体全体のための意思決定であり、そこで勝った側がどうやってマイノリティーその他も含んだ協調性を追求するかという理念が、本当はあると思うのですが。

最近の考え方に討議民主主義、熟議民主主義というものがありますが、対話が重要だけれど、そのコストが高いとなると少し暗い話ではありますね。

三浦 おっしゃるように対話による議論のキャッチボールの中から態度変容を促すというのは、民主主義の基本形というか理想形だと思うんですが、現在それは社会的にはおそらく共有されていないと思うんですね。

そこでは、主体的に判断ができる、自律的で対等な個人が参画するという前提があると思うんですが、学生からすると対話や議論の場に権力性を見出している。先生と学生では、知識も違うし、権力も違う。

あるいは男性と女性でも、いろいろな形で権力性が作用しているのに、皆が自律的で対等な個人であるという前提をおいてしまうのは、リベラリズムの虚構、あるいは欺瞞のように感じられるのではないかと思います。

つまり、異議申し立てをしたくても、それを言ったらどれだけ叩かれるのかと肌身で感じているところがあって、警察にしょっ引かれることはないとしても、就職活動ではマイナスになるのではないかと、かなり意識をしていると思います。SNSなどでも、個人が特定されてしまう可能性はあるので、「就職活動で不利になるから政治的発言を控えておこう」といった自己規制はよく聞く話です。

特に女性はものすごく叩かれるわけですね。それは批判ではなく誹謗中傷やヘイトの類です。特に性差別や性暴力に対する異議申し立ては、苛烈な攻撃を受けます。ネット空間ではフェミニストを標的とするバッシングは凄まじいです。若い世代は、「女性が目立つとこんな目に遭うんだ」と、SNSを通じて起きていることを知っているので、SSNで声を上げやすい一方、かえって敷居が高まっているとも言えます。

プラットフォームやプロバイダーの責任をどのように負わせれば、より安全な言論空間をつくれるのかが課題ですが、どこまでが表現の自由でどこからが誹謗中傷やヘイトなのかという境界線はまだ社会で共有されていないわけです。やはりこの問題を解決していかないと、理想とする「多事争論」には至らないと思います。

信頼が醸成される条件

吉田 西田さんがおっしゃった、議論のコストは、いろいろな意味で高くなっていますね。

1つは人口動態の話ともかかわっていて、今、先進国で意識調査をすると、「子供の世代は自分たちほど豊かになれないだろう」と考える人たちが多数派になっています。実際、多くの国で親世代が若かった時代に獲得できたものを今の若年層は手に入れることができていません。これは2000年代に入ってからの傾向で、戦後初の現象ですが、日本でその割合はとりわけ高い。

つまり、明日は昨日より悪くなるという前提の中で、とりわけ若年層であればあるほどそれを感じつつ、日々を生きている。その中では、「いかに勝つか」ではなく「いかに負けないか」がある種の合理的な戦略になるんです。その中で、国や地域といった共同体、自分の損得に関係ない他人のことについて考えて、参加し、発言するのは相当に高いハードルでしょう。

このことは、先進国で勢いを増しているキャンセル・カルチャーも説明します。日本でもオリンピックの際に噴出しましたが、自分の正義感にそぐわない、ポリティカル・コレクトに沿わない場合、相手の発言する権利そのものを奪おうとする。負けまいとする姿勢が議論のコストを上げている。

堤林さんがおっしゃった熟議民主主義のように、行動変容を促すことを是とする空間には、他人に対する、あるいはその場に対する特定の信頼が必要になるわけです。この信頼というのは、ある種の同質性を相手と共有している確信がないと成り立ちません。その中で初めて相手に届く批判が可能になる。

これだけ多様化し、個人化する社会の中では、そうした相互信頼はなかなか醸成されないゆえに、相手を否定するような批判になってしまう。それが言論のモードになってしまっているのが現状ではないでしょうか。

宇野 本当に昨今のSNSを見ていると、「はい論破」とよく言いますよね。要するに、相手のことをぶった切るわけです。「俺は論破した。おまえの負け」とお互いに言い合っている。

この傾向の1つの大きな特徴は、相手の議論を聞いたり、相手の立場をおもんぱかったり、妥協したり歩み寄ったりすることが決してないことです。目の前にいる敵ではなくバックにいる自分を支持している味方が重要なのです。議論で相手をぶった切って帰ってくれば、自分の味方からいいぞと応援してもらえるわけで、下手な妥協なんかしたら、むしろ後ろから叩かれる。これではなかなか対話の文化には程遠いと思います。

ではどうしたらいいのか。先ほどジョン・スチュアート・ミルや福澤諭吉のこともおっしゃいましたが、もともとはイギリスのある種の議会政治には基盤があったと思うんですね。少なくともリーダー間では、一定の文化や教養も共有していてイデオロギー的には対立していても、文化的なバックグラウンドはさほど遠くないし、個人的な人間関係もあると。

あるイギリスの政治家が結局、議会政治で一番重要なのは、共に食事をすることだと言っていました。普段どれだけ大喧嘩しても、一緒に食事すると、人間は生理的に憎しみがあまり持てなくなってしまうわけです。本当に対立している人でも、一緒にご飯さえ食べていればいざという時には妥協の余地があると。

比喩としての食事は重要なんだろうと思います。何らかの身体性を伴う共感に近いものです。少なくともSNS上でも擬似的に何らかの空間を体験でき、何らかの身体性の感覚を伴う場を共有したいという感じがします。

政治が始まる場所

堤林 教育について考えてみたいと思います。主権者教育とか高大接続改革という国の政策がありますが、このあたりのことについてご意見を伺えればと思うのですが。

吉田 今、立憲民主党から立候補している原田謙介君は、もとは主権者教育をするNPOを運営していました。「学生にどういう話をするのか?」と聞くと、皆さんのコミュニティーで欲しいもの、つまりどういう公共財が必要なのかを議論してもらうということでした。

例えば「公園が欲しい」という意見が出れば、「じゃあ実際に公園を造るためには何をしたらいいのか」ということになる。そのためには役所や近隣住民との交渉、あるいは補助金をどう獲得するのか、という話になる。彼は、「そこから政治が始まるんです」と言っていました。

その通りで、それぞれ何らかの生活上の不便を感じている人たちがその困難をどのように協働して取り除き、より良い世界にしていくのかというところから、徐々に政治的なものが始まっていくと思うんですね。

最近、スウェーデンとフランスで、徴兵制が一部復活しました。フランスは1995年に、スウェーデンは2010年に兵役を廃止したものの、復活に目立った世論の反対もありませんでした。怪訝に思ってスウェーデンとフランスで尋ねてみると、「これは社会政策だ」という答えが返ってきました。

つまり、今の時代、若者は放っておくと、自分の私的生活の空間だけに世界がとどまってしまう。そうではなく、1年の中で数日間でも、自分と社会的バックグラウンドが全く違う人間と同じ場を共有して、それこそ「同じ釜の飯を食べて」みる。そういった社会経験がないと、社会が分断され崩壊してしまうゆえの社会政策なのだという説明を受けて腑に落ちました。

日本の文脈に戻せば、われわれの権力観というか、政治との接し方を、どこかで転換することが必要です。今の権力観と政治観は、私的空間、私的領域からいかに権力の介入を排除するか、という視点が濃厚です。

そうではなく、協働しながら良き権力をどのようにつくりあげていくのか、そのためにどのようにして共同体に参画していくのか、参画するための文化資本をどのように調達するのかということを真剣に考えないと民主主義の維持は不可能です。

三浦 私がパリテ・アカデミーの中で若手女性を中心にやっている政治教育では、熱心な高校生も来るんですね。議員を目指すセミナーにどうして来るのか聞いてみると、女子高校生としての生きづらさみたいなものを抱えているわけです。

例えば痴漢に遭った話を周囲にすると、「短いスカートをはいているから」「車両を変えればいいじゃない」と自分のせいにされる。二次被害にあってしまうのですね。社会の問題のはずなのに「自分が悪い」と言われて傷つき、何か違う気がした。これは政治を変えないといけないのでは、と思って来る人がたくさんいます。

最初の気付きや違和感から政治参加へと至るには、個人が抱えている悩みや不安が、個人の問題ではなく社会構造の中でつくられたものであり、それは政治のアクションによって変えることができる、と思えるかどうかにかかっています。この接続が見えてくると、政治にかかわらないといけないと思えるようになります。

ここで意味する「政治」は、吉田さんがおっしゃるように、良き権力を作り出すこと、つまり権力を取り、それを行使することで、政策形成に影響を与え、具体的な社会の変化を起こすことです。

女性の場合、女性政治家のイメージも悪いし、「とても自分は無理」とか「そういう女性になりたいわけではない」というようなリアクションが来てしまう。でも、政治というのは皆の悩みや不安を聞き、一人ひとりの悩みを社会の問題として普遍化して捉え直し、そして問題を生じさせている、あるいは悪化させている制度を見つけ出し、それを変えていくこと。

この作業を市民と共同で行うのが政治家という職業です。このように政治家のイメージを転換すると、がぜん興味を持ってもらえます。自分が経験した嫌な思いを次の世代には経験してもらいたくない、そのためには政治が必要だ、と実感できるからです。

そうやって、女性として理不尽な思いをしたという経験を掘り下げることを、ワークショップでは繰り返していますが、特に効果的なのがスピーチの練習です。日本の教育の中ではほとんどされないんですね。練習をすると皆、上手くなります。言葉が研ぎ澄まされていくのです。スピーチ練習を中学高校で行っていくことが主権者教育としても必要だと思います。

スピーチ練習の際、「友達のスピーチを聞いたらまず褒めてね」と言うと、友達から良かったねと言われて、すごく嬉しくて自信になりました、と報告する子が多く、そんなに褒められていないんだと逆にびっくりしました。

日本は社会全体が厳しすぎるというか、駄目出しが多く、褒められる経験が少ないので若い人は自信もありません。大人の責任として、褒めて育てることをもっと意識する必要もあるのではないかと思っています。

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