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【特集:主権者と民意】
末木孝典:高校での主権者教育が目指すもの

2021/10/05

  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校教諭

はじめに

18歳選挙権が始まって2度目の衆院選が近々行われる。参院選はすでに2度実施され、高校の現場においても18歳選挙権は定着した感がある。しかし、導入後初の国政選挙があった2016年当初、様々な授業実践や関連書籍の出版が活発だったことを思うと、すでにブームは過ぎ去り、多くの課題が残されたままである。私は高校の公民科教員として授業実践を行う傍ら、日本政治史の研究者として論文を書いている。本稿では、その立場から、高校における主権者教育の目指すものについて論じたい。

あらかじめ断っておかなければならないが、私の18歳選挙権に関する考察・主張はすでに(2016年前後)、いくつかの記事や学会などで開陳し、「種を播いた」つもりであったが、現在のところ多数派を形成するどころか、「芽が出る」兆候も見せていないのが現実である。そのため本稿における考察・主張もおそらく突飛もしくは風変わりに感じる向きもあろうと思う。それでも執筆を引き受けたのは、少しでも多くの方にまずは現状の課題を認識してもらえなければ、いつまでも変革の時期が来ないのではないかと考えたからである。今回は「播いた種に水をやり、じっと芽が出るのを待つ」、そのような態度で臨みたい。

主権者教育の前提

さて、まずは前提を確認しておきたい。高校における主権者教育とは、18歳時点で必要なことを内容とするのではなく、主権者としてのスタート地点に立つ高校生が本格的に政治参加する際に必要となることを内容とするものである。その前提から見ると、現在の主権者教育や政治参加論は直近の選挙における投票行動と、その結果としての投票率に焦点が絞られすぎていると私は考えている。もちろん選挙が重要であることを否定しているのではない。喩えていうならば、登山において初心者向けに頂上での振る舞い方や注意事項ばかりを教え、そこに至るまでのプロセスが視野に入っていないのである。そのため、18歳に近づくと、突然、学校でもメディアでも大人から、「投票に行きますか?」、「どの候補者(政党)に投票しますか?」と問いかけられ、言いよどむと、「こんなに選択肢があるのに選べないなんて意識が低いのでは」、「いや、沈黙している理由を分析すべき」などと専門家に批評されてしまうのである。

これを繰り返していては、大人が期待する高い意識をもった主権者の育成の道は遠く、目指す到達点にたどり着けないだろう。高校でも生徒に徒手空拳のまま、「投票はこんなに簡単ですよ」と目先の選挙にだけは行かせようとするのでは、試しに1度は行ってみよう、とはなるが、次から行かなくなるだろう。確かに投票自体は鉛筆で人や政党の名前を紙に書いて箱に入れるだけの行為であり、その点ではきわめて簡単であるが、悩むのは判断材料が乏しいのに選択を迫られるからだろう。それを改善しないまま18歳選挙権が始まってしまったのが問題と言えば問題である。

では、どうすればよいか。私が重要だと考えているのは、最終的に選挙での投票を行う前に必要なプロセス(活動、知識)とは何かを教員が考えること、また、行かせようとしている日本の選挙は他国に比べてどのような特徴をもつのかを知ること、そして、学校教育の中で可能な形態でそれを扱うことである。以下、私が考えていることを述べたい。

傍聴によって議事を見る

第一に、選挙で当選した地方議員・国会議員が選ばれた後、地方議会・国会で何をしているのかを知ることは政治参加の前提となるはずである。議事は原則的に公開されているため、誰でも(18歳未満でも外国人でも)傍聴できる。私も2年前、担当していた授業「卒業研究」の履修者(高校3年生)を引率して神奈川県議会を傍聴したことがある。その頃は県のハードディスクから個人情報が漏洩した問題が議論されていた。実際に議場に行くことで、議員席に1台ずつパソコンが置かれていること、漏洩問題の責任を追及する議員が知事に厳しい顔を向けたときの知事の反応など、普段見られない場面を見ることができた。現在はコロナ禍で多くの議会で傍聴に制限がかかり、学校の活動としても行うことは難しい状況だが、国会や多くの地方議会ではオンラインで審議中継を行っているため、授業でも家からでも審議を見ることができる。重要議案をめぐる政府と議員との論争も、テレビニュースでは編集された形でしか見られないが、中継は生の情報として全部見ることができる利点がある。授業で一定時間視聴するだけでも、生徒から「ニュースで見た印象と違う」という反応が現れる。それは問題を追及された閣僚・官僚が、言いよどんだり、明らかにごまかしたり、同じ答弁を何度も繰り返したりする場面を見ることができるからだという。

そこで研究者として私は議会傍聴の歴史に興味を持ち、研究結果を最近論文にまとめ発表した*1。その一部を紹介すると、明治期帝国議会の最初から傍聴制度は存在し、戦前は選挙権が認められなかった女性などを含めて大勢が詰めかけた。戦後、ラジオ・テレビ中継が始まったことなどから足を運ぶ傍聴は低調になるが、2020年2月のネット中継は、それまで1日平均1万~2万件のアクセスだったのが跳ね上がり、5万8千件という最高記録となった。これは、コロナ禍で在宅勤務者が増えた状況で世論の反対が強かった検察庁法改正が審議されたことがその要因だと考えられる。つまり、日本の有権者は時間に余裕があり、かつ注目する問題が起きれば政治への関心を示し、傍聴はその姿を可視化する機能をもつのである。

被選挙権を取り上げる重要性

第二に、高校段階でも選挙権だけでなく被選挙権の存在を扱う必要があると考えている。こちらはまだ年齢の引き下げが行われていないが、すでに若者団体からは両院とも20歳以上に引き下げるよう提言されている。確かに18歳から見て最も若い候補が衆院で7歳上、参院で一回り上では自分たちの代表を選ぶという意識になりづらいだろうし、実際の選挙では30歳代すらきわめて少数である。しかし、被選挙権の存在が重要なのは、主権者は投票するだけの存在ではなく、自ら立候補し政治の世界へ身を投じることも可能な存在であることを伝えるためである。その視点を持てば、現在の制度が新規参入者に対して過酷なほど厳しい制約を課していることに気づくことができる。

私は高校3年生の選択科目「政治入門」や1年生の必修科目「現代社会」において、現在の選挙制度の弊害を扱っている。その際、供託金の高さ、選挙期間の短さ、選挙運動規制の厳しさは世界で例を見ないものであり、新規参入を阻む障壁になっていること(詳しくは後述)、それが実質的に被選挙権を制限していることを紹介している。今後、被選挙権が引き下げられて20歳以上になったとして、果たして世襲以外で若者が当選できるかどうかを生徒に考えてもらえば制度の問題点を実感できるだろう。

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