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【特集:主権者と民意】
末木孝典:高校での主権者教育が目指すもの

2021/10/05

政治参加の手段を示す

第三に、政治参加としてどのような手段があるかを生徒に提示し、自分なら何ができそうかを考えてもらうことが必要である。これは生徒を煽って政治活動させようというのではなく、主権者が意思表示できるのは選挙だけではないこと、選挙で選んだ政治家に対して意見を述べ、おかしな動きには反対の意思を表明することは民主主義の通常のプロセスであることを知らせるためである。

かつて1960~70年代は政治に熱い時代であり、その頃の人々は組織に所属し、それを通して意思表示していた。しかし、今や組織化されない個の時代に入っているにもかかわらず、制度がかつての設計のままであるため意見が反映されない層が生み出され、政治に対して冷え切っている。多くの大人は選挙以外の政治参加の経験が少ない。そのため、あえて学校で参加の手段を提示しないと生徒は知ることすら難しいのが現状だ。国際調査を見ても、日本は他の先進国に比べて政治参加経験に乏しく、その傾向に変化の兆しはない。例として新聞報道を紹介すると、政党への参加・活動経験は1.4%、デモ参加経験は5.8%である*2。つまり、ほとんどの有権者が選挙での投票以外に政治参加経験がない上に、投票率が50%前後に低下している現状は相当危機的であるといえる。しかし、だからといって目先の選挙に行かせようとだけするのは表層的と言わざるを得ない。

「べからず選挙」

なぜならば、日本の選挙は世界で他に見られない「べからず選挙」であるからだ。供託金は1人300万円(衆院小選挙区)もかかる。一定の得票があれば戻ってくるとはいえ、最初の選挙で没収されたら次は立候補できるだろうか。しかし、多くの議員は公認を得た政党に支払ってもらっているため、引き下げや撤廃の議論は低調である。次に、選挙期間は12日間(衆院)と短い。戦後は30日間で始まったが段階的に減っている。これでは新人候補は知名度向上のための名前の連呼とポスター貼りで終わってしまうだろう。そして、運動規制については、各家庭・事務所への戸別訪問が禁止され、文書頒布に厳しい制限があり、事前運動や立会演説会を開くことも禁じられている。

例えば、多くの人は候補者の街頭演説中にスタッフがビラを配っている光景に遭遇したことがあると思うが、あのビラは上限7万枚と決められている。そのため、選挙陣営は証紙と呼ばれる小さなシール7万枚を選管から受け取り手作業で貼ってから配布していることを知っているだろうか。また、戸別訪問の禁止は何度も違憲訴訟が起こされているが、裁判所は合憲判断を貫いている。その主な理由に買収防止が必ず挙がる。日本以外の国では戸別訪問が認められているが、大きな問題は起きていない。なぜならば普通選挙下では戸別訪問で1票ずつ買収するよりも、最近日本でも起きたように、組織票を動かせる大物にとりまとめを依頼する事例が多いからであり、この理由での合憲判断は不思議である。むしろ今の日本では、様々な候補や政党が支持者以外の有権者と直接双方向でやりとりできる機会を逸していることが、政党不信を招き、その結果無党派層を増やし、有権者の半分が棄権する事態を引き起こしているのではないだろうか。政治に冷え切った時代には国民の声が反映されるように直接的な接触を促進するようなルールが必要であろう。

100年続く規制からの脱却

さて、このような厳しい規制の源流はどこまでさかのぼれるだろうか。実は明治期に始まった選挙制度は西洋に倣い基本的に自由だった。厳しい規制は1925(大正14)年の男子普通選挙で知られる選挙法改正時に導入されたのである。当時の目的は普通選挙導入によって無産政党が組織力を生かして有権者に働きかけ、勢力を拡大することを防ぐためであった。内容としては、戸別訪問禁止と供託金導入だけでなく、当初は「個々面接」と「第3者運動」すら禁止されていた。個々面接とは偶然道で会った知り合いに候補者が投票を呼びかける行為であり、第3者運動とは登録した選挙陣営スタッフ以外が選挙運動を行うことである。戦後どちらも解禁されたが、約20年間、選挙に関われる者を限定し、候補・陣営と有権者を徹底的に接触できないようにしたのであった。

このような厳しい規制がほぼ100年間続いたことで、選挙は投票だけするもので普通は関わらないものという感覚が市民に残り、今や日本の選挙はそういうものだと誰も疑問に思わない状態まで定着してしまった。しかし、このような選挙は日本だけであり、投票率の低さや世襲議員の多さを嘆くのであれば、新人候補・新政党が極端に不利になるしくみを変えるべきである。現在の高校生が選挙の投票先に悩むのも、高校生の意識が低いからではなく、他国に比べて投票先の選択に必要な情報が乏しいのに、それに慣れきった大人がこれまでしくみを変えなかったからである。もっと言えば、選挙期間を短くし、供託金の金額を上げてきたのだから、事態を悪化させてきたとさえ言える。

おわりに

現在の主権者教育は現行制度の欠陥に目を向けず、生徒を「投票者」にするための教育になってはいないだろうか。主権者とは、自分たちの社会の問題を自分たちで話し合って決めていく存在であるはずだ。社会問題への認識・関心が喚起されず、問題に関する情報や議論(プロセス)もないままに国民の代表者を選ぶこと(選挙)は、選んだらお任せになりやすく、不祥事を起こす議員が現れたときだけ、「信じていたのに(任せていたのに)裏切られた」と怒る構図になりやすい。「信じてお任せ」ではなく、自分たちの社会の問題に意見を表明し合い、議論を経て、それをくみ取った形で政治の場で決めていくという民主主義の原点に立ち返ることが必要である。当然、このような決定過程は本来時間がかかるものであり、その手順を踏まない決定は批判されなければならない。日本でも一時期、熟議が模索されたが、結局、時間をかけずに「決められる政治」が追求され続けている。主権者が政治参加していない状況での迅速な決定は何をもたらすのかをよく考えておきたい。その点で選挙にだけ取りあえず行かせようとする教育は、厳しい言い方になるが、参加なき決定への免罪符にならないかと危惧している。

幸いなことに、最近の学校教育では様々な教科でアクティブ・ラーニングが推奨され、グループワークが積極的に行われており、生徒はそれに慣れている。実際に初対面からのコミュニケーション構築の手際の良さはかつての比ではなく、おそらく多くの大人は驚くだろう。これを発展させ、さらに政治や社会問題といった堅いテーマが当たり前のように語られるようにしたい。そして、民主政治においては学校教育を終えた大人も主権者として議論を継続しつづけることが必要であり、学生から社会人への接続をどうするかが今後の課題として考えられる。その点で18歳選挙権の実現は、これまで問われることがなかった、社会人になってからどのように社会問題を議論し、政治参加していくのかという問題を喚起したといえる。というのも、高校生に積極的な政治参加を求めている以上、「では大人はどうなのか」という当然の問いかけに応答する義務が大人にはあるからだ。現状はそれが広く共有されているとはいえないが、少なくとも教員はその義務を果たさなければならないと考えている。

〈注〉

*1 末木孝典「近現代日本の議会傍聴―帝国議会開設から現在まで―」(『年報政治学』202一―Ⅰ号)。

*2 「チャートで読む政治」『日本経済新聞』2021年8月19日付。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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