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【特集:主権者と民意】
座談会:若年層に政治参加を促すために何が必要か

2021/10/05

現代の若い世代のアクティビズム

三浦 最近、若者や女性のアクティビズムは本当に盛んになっていると思います。女性について言えば、2017年の伊藤詩織さん事件に端を発した日本でのMeTooは、米国発の「#MeToo」の少し前から始まるわけですが、2018年は財務次官のセクハラ事件や医学部入試女性差別などが明らかになり、社会の覚醒が一気に広がった年だったと思います。

2019年になると、さらにMeToo、KuTooの積み上げもあり、フラワーデモが1年間にわたり毎月全国で開催されたことで、性暴力の問題が可視化されていきます。そこに年末のジェンダーギャップ指数121位というニュースが飛び込み、社会に衝撃が広がりました。主要メディアや企業もジェンダー格差を無視できなくなったのです。ここまで持ってくることができたのは、フェミニズム運動の蓄積があると思います。

「アクティビズム」という言葉がピッタリくると思うのですが、個人として何かアクションをして社会を変えていきたい。生理の貧困を解決するとか、刑法を改正するといった個別のイシューが具体的にあって、署名運動を立ち上げる、インスタグラムやツイッターで拡散するといった手法も一般的です。その結果、成功体験が確実に積み重なってきていると思います。中心となっているのが20代の女性が多いという特色もあります。

でも、一方で、宇野さんがおっしゃったように、政党政治には大きな距離がある、忌避感があるというのはその通りです。自分たちのロジックとは違う、コントロールできない政党政治や永田町のロジックに巻き込まれてしまうことには大きな警戒感があると思います。

堤林 すみません、ちょっと私の認識がずれていたようで、日本でもそれなりに政治的な運動は盛り上がっているということですね。

ただ、主にSNS上のそういったムーブメントと、先ほど宇野さんが言われたような教室での雰囲気は、ギャップがあるのかなと思うのです。よく私は学生に「政治の話って、皆でディスカッションしているの?」と聞くんですが、「まずしません」という人が圧倒的に多い。

「意識高い系」という言葉をその時に初めて知ったんですが、肯定的に使われるのではなくて、敬遠する感じなんですね。マジョリティーはほとんど日常的に友達同士で政治についてディスカッションしてないという印象があるのですが。

三浦 マジョリティーは依然として意識高い系には見られないように注意しているというのはその通りだと思います。

二極化しているのでしょうね。一部の子たちの行うアクションが目に見えるようになってきたのはここ数年の動きです。それはごく一部であるのは間違いなく、その子たちも教室ではやはりアクションにかかわっているようには見られたくないようです。

でも、皆が社会や政治に関心がないわけではない。オンライン授業でむしろ発言はしやすくなっていて、クラスの中で受講生が投稿できるフォームを共有して、複数回投稿しないと単位は取れないと告げたら、すごくいい意見が出るんです(笑)。それもたくさん。だから、ちょっとしたきっかけさえ与えれば、関与を引き出すことは可能なのではないかという手応えを感じています。

「異議申し立て」の増えない日本

吉田 構造的な話をすれば、頭数でみれば日本の若年層は圧倒的に社会の少数派なわけです。さらに、もともと長老支配の社会で、文化資本を持っている人たちが皆、中高年の男性という中で声を上げるのは大変に難しい。

投票率の話に戻すと、北欧は例外としてOECD諸国では、大体この40年程で5~7%ぐらい投票率が継続的に下がっている状況です。つまり日本だけの問題ではなく、その背景には、今の代表制民主主義をめぐる問題があります。

ただ、一方ではイギリスでもアメリカでもフランスでも、1970年代と2000年代で比べて見ると、デモに参加をする、あるいはアクティビズム的な、不買運動といった形でも政治参加をする人は、大体どの国も倍に増えています。しかし日本の政治活動の熱量はむしろ低下している。

ロバート・A・ダールのポリアーキーに倣えば、「参加」と「異議申し立て」の両方があって初めて自由民主主義と言える。ところが日本は、参加の側面も、異議申し立ての側面も減ってしまっている。他の国では確かに投票するという参加は減っているけれど、その分、異議申し立てが増えているわけです。

日本で民主的な政治参加を表明する契機というのがどんどん狭まっているのは確かでしょう。投票率云々よりも、このことこそが民主主義にとって危機的なことだと思います。

堤林 おっしゃる通り、フランスでも異議申し立ては健在で、相変わらずしょっちゅうデモをやっていますが、日本はかなり少ない印象があります。

ピエール・ロザンヴァロンがカウンター・デモクラシー(la contre-démocratie)と言っています。デモクラシーというのはもちろん制度もあるけれど、外からいろいろと発言し、異議申し立てをすることが重だということですが、なぜそうならないんですかね。

吉田 村上春樹の初期の小説『風の歌を聴け』などでは、脱政治化した時代にどう振る舞うかが1つのテーマになっています。あの世代が今、若者の親世代になっているわけです。

主権者教育もなぜ今のような形になったのか、教育学者との共同研究では、70年代の学園紛争の後、過度に政治化した学校をどう沈静化するのかという当時の文部省の方針が影響していることがわかりました。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」、ではありませんが、ポスト脱政治化の主権者教育がまだ見えていません。

家庭で政治の話をせず、親が投票に行かないと、子供はもちろん行かないですよね。フランスのように人口の半分ぐらいはデモ参加経験があって、親が子供を連れて一緒にデモをすれば、政治参加をするのが普通のことと思えるようになるのでしょう。

宇野 おっしゃる通りだと思いました。若い時にそういうものを体験する場があるかどうかがものすごく大きくて、日本でも60年代の当たり前のように大学生が政治参加した時代と、今の時代のようにどう政治に参加していいかの糸口すら見つからないという状況の違いはやはりあると思います。

私自身、正直言ってデモは、日本では全く参加したことがなかったんですが、2000年から2002年にフランスにいる時、あの「反ルペン」の時に初めてデモに参加して。

吉田 僕も子供をベビーカーに乗せて参加したことがあります(笑)。

宇野 普通の高校生がやるんですよね。参加したら意外と「デモって楽しいね」と思い、すっかり味を占めて日本に帰ってきて、反イラク戦争のデモに参加したら警察に囲まれて写真を撮られ、すっかり嫌になってしまった記憶があります。

これは経験を積むことがすごく大きいですね。台湾のオードリー・タンさんのデジタル・デモクラシーも、やはり学生運動の中のそれなりの成功体験の蓄積がある。相対的に今の日本ではその種の経験をすごくしにくくなってしまっている。

一般化は難しいですが、シールズ(SEALDs :自由と民主主義のための学生緊急行動)の参加者も大学によってずいぶん傾向の違いがあったように思いました。リーダー層で目立ったのは明治学院やICUで、おそらく留学体験もあり、学内に外国人留学生の人が多いと思われる大学です。

あるいは、最近三浦さんと私が関係している「NO YOUTH NO JAPAN」という若い学生たちを中心とする組織なども北欧に留学した人たちが始めているんです。

やはり、若いうちから「政治には当たり前に参加できるんだ」という経験を積めば、行動も変わってくる可能性はあると思います。

高くなる「議論のコスト」

堤林 西田さんにお聞きしたいのですが、少なくとも私の若い頃にはなかったインターネットというものが今はあるわけです。それを突破口として、何か希望といいますか、変化の兆し、あるいは可能性はあるんでしょうか。

西田 若者たちに「政治とかかわると危ない」とか、「偏りたくない」という認識がある中で、1歩踏み出せば匿名で異議申し立てができるようになったことは好ましいと思います。もう1つ、コミットメントということで言えば、活動している団体などにクラウドファンディングなどで、お金を出しやすくなったという点は、肯定的に捉えられるでしょう。

しかし、そもそも根本的な問題のようなものはあまり変わっていないという認識を持っています。

僕はやや特殊な職場で、理工系に特化した学生を相手にしていますが、彼らは基本的に、大文字の「政治」にはかかわりたくないと思っていると同時に、偏った認識に強く毒されている人も見かけるのです。

公民系科目のウェイトが低く、総合大学や文系の大学生よりも、ある種の陰謀史観的なものの影響を受けやすいのではないかと考えています。ジェンダーの問題に関しても大変関心が低い。その一方で、彼らの学力は理工系に関していうと極めて高いというギャップもあります。

大学入学後に適切な文系の教養科目を履修して欠落を補完しないと、自発的に陰謀論みたいなものをどんどん掘り下げていってしまうのではという心配もあります。

救いはある種の賢さで、「いやデータは違う」とか見せていくと、だんだん戻ってくる点です。そういう意味から言えば、「ネットがあれば自ずと良くなる」というような感覚はあまりないですね。

堤林 非常に重要な指摘でおっしゃる通りかと思います。 

一方、異議申し立てというのは、本来の民主的な理念からすれば、対話の中でなされるものだと思います。福澤諭吉が「多事争論」と言っていますが、いろいろな意見を表明して戦わせ、そこからよりよい意見が出てくる。ジョン・スチュアート・ミル的な発想ですが、特にツイッターなどでは、現在はそういったプロセスと言いますか、作法を伴わない批判や異議申し立てになっているという印象を私は持っています。

どうやってその批判、対話をするのか。「批判(critique)が重要なんだよ」と、授業で僕は再三強調しますが、ただ批判すればいいというものではなく、やはり相手の言っていることにもちゃんと耳を傾けてキャッチボールをする。これは民主主義にとって重要なことだと思うんですが。

西田 議論が重要だというご指摘、全くその通りだと思います。しかしその一方で、議論のコストがとても高くなって、議論をするには時間も場所も必要です。

するとなぜ意見が異なる、ある意味不快な相手とわざわざ議論をしなければいけないのか、いま一つよく分からないという人たちが増えているような実感があります。また「論破される」などといって態度変容を嫌う雰囲気もあります。

さらに、分野が離れた研究者が話す、いわゆる論壇のような場所もなくなりつつある。それどころか、最近の実証研究だと、言葉の認識さえも世代によって違いが出ているという指摘もあります、例えば「保守」とか「革新」といった基本的な認識が異なってきていることも指摘されています。

本来、議論をするということと態度変容に対して寛容であるということは、おそらくセットである必要があるはずです。しかし、最近の若い人たちの中では、態度変容をすることが「負け」とか「一貫性を損なう」というような、ある種の恥意識みたいなものと結びついている側面があるようです。

そうであればあるほど、議論をして態度変容をして、それを認めて何かを一緒にやっていくということのコスト意識が高くなってくる。これをどのように解除していくのかが大きな課題だと考えています。

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