三田評論ONLINE

【特集:地方移住の現在形】
座談会:地域の可能性を育む 自分らしい移住

2021/07/05

徳島県神山町の風景
  • 大南 信也(おおみなみ しんや)

    NPO法人グリーンバレー理事

    スタンフォード大学大学院修了。建設業を営みつつ、1990年代から、「創造的過疎」を持論に、多様な人が集う徳島・神山町の町づくりを展開。神山まるごと高専設立準備財団代表理事。

  • ERI(大津 愛梨)(おおつ えり)

    O2Farm、NPO法人田舎のヒロインズ理事長

    塾員(1998環)。熊本・南阿蘇村にて農業を営む。2017年、国連食糧農業機関(FAO)アジア・太平洋地域事務所より「模範農業者賞」を受賞。SFC上席研究員(長谷部葉子研究会)。3男1女の母。

  • 中村 駿介 (なかむら しゅんすけ)

    株式会社リクルート ヒトラボ エグゼクティブ

    塾員(2006環)。株式会社リクルート人事戦略部部長を経て現職。2020年4月、地域おこし企業人として長崎県壱岐市に移住。株式会社Colere共同代表。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科在学中。

  • 山中 大介(やまなか だいすけ)

    ヤマガタデザイン株式会社代表取締役

    塾員(2008環)。三井不動産勤務を経て、2014年、山形・鶴岡市にヤマガタデザイン株式会社を設立。ホテル「スイデンテラス」、教育施設「キッズドーム・ソライ」等の街づくり事業を手掛ける。

  • 玉村 雅敏 (司会)(たまむら まさとし)

    慶應義塾大学総合政策学部教授・SFC研究所所長

    塾員(1996総、2002政・メ博)。千葉商科大学助教授等を経て現職。博士(政策・メディア)。専門は公共経営、ソーシャルマーケティング等。地域活性化伝道師(内閣府)。地域力創造アドバイザー(総務省)。

「可能性の感じられる町」に

玉村 今日は「地方移住の現在形」をテーマに皆さんと話し合っていきたいと思います。移住と言うと、移るというイメージが強いかもしれませんが、住むということが大きなテーマでもあります。「住む」というのはその土地に暮らし、生業(なりわい)を営むということですね。自分らしくあるために移り住むこともあるのではないかと思っています。

そうはいっても、どこかで何か生業を営み「住む」ということになると、実はそんな簡単なことでもなく、かなり大変です。皆様が現場で挑戦をしてきたからこそ見えてきたことがたくさんあると思っています。今日は、まさしく現場で試行錯誤しながら未来をつくっていくことに携わっている皆さんにお集まりいただきました。

今回のテーマのもう1つは「現在形」なわけです。現場で起きていることに常に本質はあると思いますし、未来のことというのは、今どこかで必ず起きているわけです。未来に向けて、今、見るべき本質ということを今日はぜひ聞いていきたいと思います。

最初に皆さんから自己紹介を兼ねて、自分の経験とそこから少し俯瞰的に地方移住について見えてきたものなどをお話しいただければと思いますが、まずは大南さん、お願いいたします。

大南 私は1953年生まれ、先月68歳になったところです。神山町に来られる若い人からは「お年を取られて、こんなことをやられているんですか」みたいな感じで聞かれますが、若い頃からゆるゆると、まちづくりに関わってきました。

徳島県の神山生まれ、神山育ちです。家業が建設業なので、公共工事で生計を立ててきたんですね。一方で、私は公共工事に頼らないような町のあり方があるんじゃないかなと思い、自己矛盾を抱えながらずっとやってきました。ここ数年は仕事5%で、自分のやりたい地域づくりに95%を時間的には割いているような感じです。

1977年から2年間、シリコンバレーで暮らしたことがあります。当時、自動車産業が非常に好調で日本のほうが優位と言われていた時代でしたが、その時期に、今のコンピュータ時代の下地が広がっていたんですね。そういうこれから何か起こりそうな雰囲気に触れたことは自分自身にとって大きかったかなと思います。

玉村 未来を予感させる感じですね。

大南 そして、そこから戻ると神山で自分の家業の傍ら、商工会青年部などで地域づくりに関わっていきました。アーティストが常に町の中にいるような場をつくりたいと考え、1999年にアートプログラムを始めます。そうしてアーティストの移住者が町に生まれ始めました。

すると、今度はアーティストだけではなくてクリエーターなどの、多様な人たちが町に来るようになりました。それで、一連のアートプログラムなどを紹介するために、2008年に「イン神山」というウェブサイトを、総務省の補助金で制作しました。

神山はもともとそんなに仕事のある場所ではないです。NPOグリーンバレーは民間で動いているから、予算を使って仕事をつくることができません。でも、「ワーク・イン・レジデンス」という、仕事を持った人に移住してきてもらうためのプログラムを始めると、小さな起業者が集まり始めたんです。

そのうち、Sansanの寺田親弘さん(塾員)などが2010年9月から町を訪れ始め、面白そうだからこの町にオフィスを構えようと、サテライトオフィス設置の動きが始まり、デザイナーやクリエーター、起業家が行き交う場所になっていったのです。

そうした中、これから町の将来を組み立てていく上で「可能性の感じられる町」であり続けることが不可欠ではないかと、いろいろ議論を重ねながら神山町地方創生総合戦略がまとめられた。さらに2019年6月からは、寺田社長をはじめとした有志の起業家が、中心となって、次世代型高専(高等専門学校)をつくろうと、今、苦労しながら準備を進めているところです。

玉村 高専の話は後程じっくり伺いたいです。

大南 そうですね。神山は、「創造的過疎」を移住政策のテーマに据えています。2008年以降、日本の総人口が減少するわけだから、これまでずっと人口が流出してきた神山のような場所で人口減少をストップするのは無理だろう。そうだとすれば、数を追いかけるのではなく、人口の中身を変えていこうという考え方です。

それが少しずつ効果を発揮し、2019、20年と連続して、神山町の人口は社会増になりました。依然として人口は減っていますが、社会増を達成したということは、結果、若い人たちの比率が高まっているということです。

神山を1つのフィールドにして、新しいことが次々と起こっていくことで、この場所だったら自分の思いを成し遂げられるかもしれないという可能性を感じ、また人が集まってくる。それを繰り返すことによって、人口は数だけじゃないんだ、ということを見せることができれば、様々な場所での可能性にもつながってくるかなと思い、日々活動を続けています。

過疎化の村に来て

玉村 おそらくいろいろな紆余曲折がおありだったのだと思います。続いて、大津さんお願いします。

ERI(大津) 私は大南さんとは全く逆で、縁もゆかりもなかった土地に、嫁という立場で来たわけです。

酸いも甘いもいろいろあった19年間でしたが、過疎化している村にお嫁さんとして来て、子どもを4人産んで、少子化防止には貢献しているし、実は塾員である父も移住してきて、村の人口を増やしたことについては胸を張って威張れます。家族だけではなく、この18年間で17組が、私たちを頼って阿蘇に移住してきました。その人たちが結婚・出産して、全員合わせると35人にもなっているんです。

でもそれが目的なのではなく、「農業を続けることで農村風景を守る」ことが私たち夫婦のライフワークです。だからいろいろなことをやっているように見えますが、ベースは常に農業。SFC同期の夫と、先祖代々受け継いでいる田んぼで無農薬と減農薬で有機栽培し、産直で全国の皆さんにお届けすることで専業農家として暮らしています。

私にとって、移住のきっかけはすごく簡単で、学生時代に一目惚れした相手がここ出身の人でしたと(笑)。そしてその人が郷里にいつかは帰ると言うから、年取ってから行くよりは若いうちのほうがいいし、自然豊かな中で子育てをしたいからと、好きな人の生まれ故郷に来たというだけの理由です。

農業はもちろんラクではありません。でも、私は農業を選んで良かったと思っています。農業をベースにすると、やれることは本当にいっぱいあって、それを思いつくまま次々とやりました。都市農村交流や加工品のチャレンジ、国際交流など。失敗も沢山しました。斬新なことをしようとして、地方の閉塞感に悩んだこともありました。

状況が大きく変わったのが、世界農業遺産を目指す活動に参画した時からです。知事らと一緒になって阿蘇をアピールし、見事に認定されました。

「世界から認められた阿蘇の価値を守りたい」という思いがさらに強くなり、生物多様性とか景観保全、持続可能な社会における農業などをテーマとした発信に力が入りました。メディア露出も増え、ちょっとした「出る杭」になると、変な噂を流されたり足を引っ張られたりして、プチ人間不信になったことも。でも、農作業に没頭していたら、農の癒し力に救われました。

その後、気持ちと発想を切り替えて、農村社会全体に一石を投じるというよりは、自分たちの農場でやれるだけのことをやってみようと動き出したのが令和元年。結婚20周年の年でした。日本の原風景といわれる田畑や森林、いわゆる「里山」を守りながら、再生可能エネルギー100%を目指し、農業・農村の新たな価値や存在意義を創造することに取り組み始めています。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事