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【特集:大学のミュージアム】
座談会:新たな可能性に挑む大学ミュージアム

2021/04/05

デジタルテクノロジーの可能性

松田 次のトピックはデジタルの可能性についてです。この1年、コロナ禍でいろいろな対応を迫られてきたこともあり、単に展示環境をデジタル拡張するだけでは、来館者の興味を引き付けられない状況もあると感じています。

われわれKeMCoでも、ミュージアムとして初めてクリエイション・スタジオを館内に持つことで、学生を巻き込んでフィジカルとデジタルの交流を実践することを重視しています。デジタル環境が持つ可能性、あるいはその限界、特にコロナ禍での取り組みについて、お聞かせいただければと思います。

岡室 KeMCoさんの素晴らしく洗練されたバーチャルミュージアム(Keio Exhibition RoomX: 人間交際)も拝見していますが、うちは多種多様なんです。

演博はデジタルアーカイブには非常に力を入れています。2001年にデジタル・アーカイブ・コレクションを公開しており、デジタルアーカイブに関しては、20年の歴史があります。役者絵をはじめとして海外からも多数のアクセスがあります。

近年力を入れているものの中に「能面3Dデータの公開」があります。海外の方にも非常に評判が良いのですが、震災を1つの教訓として、貴重な資料を3Dデータで残すことで、再現可能性を追求しています。デジタルデータですから画面上でひっくり返したりもできますし、能面は角度によって表情が変わります。そういったものをPCやスマホ上で体験していただけます。

また、河鍋暁斎の「新富座妖怪引幕」という歌舞伎幕の大英博物館出品を記念し、凸版印刷さんのスタジオで撮影した高精細画像を元にアニメーションを制作しました。これはロンドンのお披露目では非常に反響がありました。

なぜこういうものをつくったかというと、現代のテクノロジーを使って、古典芸能の資料にいかに新しい命を吹き込むかということに現在、注力をしているからです。やはり学生に興味を持ってもらいたいのです。

また、「くずし字自動判読システム」にも力を入れています。これも海外の研究者だけでなく、学生にも古典の資料に親しんでもらいたいと願って、開発をしています。

さらに、これまでは実物があるものをずっとデジタル化してきたんですが、これからはボーンデジタルの資料をどのように扱っていくかということが課題になっていくと思います。

デジタルデータというのは、開かれた博物館になっていくための、1つの重要な要素ではないかと思うのです。かつては博物館というと、どれだけ貴重な現物を持っているかで勝負していましたが、もちろん現物というのは非常に重要なものだということは変わらないとしても、デジタルデータにすることでそれをいかに開いていくかが今、問われているように思います。

デジタルをつなぐリアルな場

保坂 今、ボーンデジタルの話がありました。その中からコンテンツをどうやって確保し、公開していくかが課題ですが、誰かがしゃべっている音声データや動画データというものは結構蓄積されているはずなんですね。

前任の東京国立近代美術館でも、例えば東山魁夷がしゃべった音声データがある。しかし、それを公開するには、文字起こしして編集して、紀要などの紙媒体にして出すということをかつては考えていた。

でも、コロナ禍を経験した今は権利処理の問題は別として、音が聞きづらくても出してしまえばいいのでは、という雰囲気になってきた。

つまり、今までミュージアムというのは、モノがコンテンツだと考えていたわけですが、同じアーカイブの資料でも、非マテリアルなものをコンテンツとみなし、公開していくことで人々の注目を集めることができるようになっていくんだろうという気がします。

つまり、今後ミュージアムが何をコンテンツとして考えていくかというのが問われているのではないか。

もう1つ、ボーンデジタルについて言うと、建築展で常に問題になるのが、ボーンデジタル以降の建築の展覧会はどうやってつくればいいんだという話です。できないことを大学ミュージアムに押し付けているようで申し訳ないですが、それこそ京都工繊は建築の専攻もあると思うので、ボーンデジタル時代の建築展の可能性を、ぜひ切り拓いていただきたいと思ったりもします。

渡部 大変重要なご指摘ですね。今、松田さんと私は、KeMCoの新しいファブラボにあたる「KeMCo StudI/O(ケムコ・スタジオ)」という所にいるんですが、KeMCoのコンセプトの1つにアナログ・デジタル融合が掲げられています。デジタルの発信にも実はリアルな「場」が必要なのではないかということで、空き地の発想の延長にスタジオがあるんですね。

美術展でもいろいろなデジタルツールを使った試みが、最近盛んに行われていますが、何となく「デジタルで発信します」と言っても、展示物とあまり結びついていない場合が多いように感じています。

また、専門の先生たちから、「すごいでしょう」と言って、最先端のデジタル技術について見せられても、モノを展示している人間には何がすごいのかよくわからなかったりします。モノの側とデジタルの側との間にあまりコミュニケーションがない。

大学にあるファブラボ的なものもデジタルにして発信することだけに注力していて、入力側があまり斟酌されていないと思ったんですね。KeMCoにファブラボがある意味というのは、コレクションというモノがある所にデジタルをつなぎこむサイト(場)があることで、そこをつないでデジタルによって広げていくことができるのではないかという狙いがあるのです。

オブジェクト・ベースト・ラーニング

松田 渡部さんが言われたように、デジタルのためにもアナログの場が必要だということでこのスタジオをつくったわけですが、やはりミュージアムに期待されるモノとの出会いへの、オブジェクトが持っているインパクトは大切にしたいと思います。

次のトピックとして、モノが持っているインパクトを出発点として、どうミュージアムが広がっていくかを考えたいと思います。大学ミュージアムの場合、それはまず教育から出発して、その先には大学間の連携、地域社会、さらに海外との連携と広がっていくのではないでしょうか。

KeMCoでは今年から独自の講座を開講して、そのなかで渡部さんが「オブジェクト・ベースト・ラーニング」(OBL)というものを始めています。少し紹介していただけますか。

渡部 オブジェクト・ベースト・ラーニングというのは、まだ日本ではあまり大学教育の中に入ってきていないんですが、モノをどのように大学教育の中に取り込んでいくかということで、特にこの10年程の間にオーストラリアとイギリスで非常に盛んに取り入れられている方法です。

言ってみればアクティブ・ラーニングの1つの形で、もともと初等中等教育でよく使われていた方法です。簡単に言えば、オブジェクト(モノ)に直接、生徒・学生が接触することで様々な教育効果を導き出す狙いがある。海外では高等教育、大学教育でも、近年よく使われています。これをKeMCoの教育の核にしたいと思っています。

実は、日本ではオブジェクトとしての作品と直に接する形の教育は、小中学校ではなく、美術館教育(ミュージアム・エデュケーション)の中の子供向けワークショップなどで行われてきており、学校教育とはかなり分断された状況にあります。

OBLを単純化して言うと、まず、あるモノをどのように記述するかというところから入ります。学生が10人いると、コップの大きさについて「手に入るぐらいの大きさ」「コンビニのコップと同じ大きさ」「10センチぐらいの高さ」と皆、違うことを言う。そのようにモノはすごく多面的に見えるということを味わうことから出発します。

ミュージアムというものは、基本的に見せる側の論理でモノに対応しています。大学のミュージアムであっても、キュレーションして作られたストーリーの中で観客、学生も味わうという方法になる。しかし、そうではなくてもっと見る側、学ぶ側が直にオブジェクトに接触する機会をつくる、モノから出発する教育のシステムということです。

日本は同調圧力も強いですし、皆が同じバックグラウンドを持っていると思い込みがちですが、コップ1つを記述するだけで、実は人によって全然違う風にモノを見ていることに気づく機会になると思うのです。そのことで、より多様に考えたり感じたりすることを解放していく機会を学生が得られれば、おもしろい発見があるのではないかと思っています。

また、オムニバスで授業を提供する側も、松田さんは英文学の専門家ですし、私は美術史ですし、もう1人、理工学部の重野寛さんはデジタル系の専門家ですので、学生にとって、まったく違った観点が開いていけば興味深い。同時にそこに集う研究者のコミュニケーションツールになり、領域横断的な研究にも結びついていけばおもしろいなとも思います。

並木 これは、単位になってカリキュラムに組み込まれているものなのでしょうか。

渡部 そうです。去年の秋からトライアルで授業をやっていて、今年の4月から全学部対象で本格的に授業が行われます。どこの学部の学生でも単位認定して取れる科目になる予定です。学芸員資格科目とは今のところ接続していませんが。

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