三田評論ONLINE

【特集:大学のミュージアム】
座談会:新たな可能性に挑む大学ミュージアム

2021/04/05

大学ミュージアムに求められるもの

松田 それでは、保坂さんお願いいたします。

保坂 私はこの1月から滋賀県立近代美術館(4月より滋賀県立美術館)の館長という形で勤め始めています。その前は、東京国立近代美術館で20年間働いていて、様々な展覧会をやったり、コレクションの収集に関わったりしてきました。なので、職業としては、まったく大学ミュージアムとは関わりはないんです。

今まで手掛けてきた展覧会も、様々なジャンルがあり、専門は何かと聞かれると、正直困るところがあります。直近では6月から東京国立近代美術館で開催される、建築家の隈研吾さんの展覧会がありますが、一方で、アール・ブリュットといわれる、アートを専門にしていない人たちによる独創的な表現の展示にずっと関わっています。

また、一貫して近現代美術の展覧会も手掛けているので専門がない代わりにキュレーションとは何かとか、美術館など展覧会をやる場所はどういう意味を持つのかということは常に考えています。いろいろなジャンルの展示を手掛ける中、調べものに行かなければならない際に大学ミュージアムのお世話になることは多々あります。

建築の展覧会の際は、京都工繊の村野藤吾のアーカイブを拝見させていただきましたし、現代美術展の企画を練っている時に、演博のベケットの展覧会も拝見させていただいた記憶があります。つまり、ユーザーとして関わらせていただいているわけですね。

ところで、日本と海外の大学ミュージアムはかなり違うのかなと思うところがあります。1つ、キュレーションをどこで学ぶのかということが大きな問題としてあると思うんですね。それは日本の学芸員資格が有名無実化しているというところと重なり合いますが、博物館学だけではなく、キュレーションを学ぶ場として、僕は大学ミュージアムはもっと機能していいのではと思っているのです。

諸外国の大学ミュージアムでは、自分のところの大学院生に一種のコンペをやらせて、取った人には実際にその展覧会をさせてあげる、というケースがあったりする。そのようにキュレーションを実践的に学べる場として機能してほしいと思うところがあります。

もう1つ、アール・ブリュットの観点から言うと、アール・ブリュットというのは、いまだに美術館でも評価が定まっていないところがある。そして、アメリカは特にアール・ブリュットの個人コレクションが大学ミュージアムに寄贈されるケースが多いんですね。

その結果、当然、展覧会が企画されるんですが、そのことを通じて学生がアートとは何か、いわゆるアート・ヒストリーの中で評価の定まっていないものをどう文脈付けして解釈していくのかという、非常に生々しいキュレーションや研究活動に接することができる。それが礎となって、大学以外のミュージアムに刺激を与えることができているのではないかとも思うのです。

そういうあり方が今後の日本の大学ミュージアムに求められるものではないかと思っています。

「空き地」という発想

松田 それでは、KeMCoの「ミュージアム・コモンズ」というアイデアの生みの親でもある、渡部さんお願いします。

渡部 私はかなり長くミュージアムで仕事をした後に大学に移ってきました。慶應のアート・センターに移ってまず驚いたことは、ミュージアムがなく、つくる気配もないということでした。大学の美術関係者の集まりでも「慶應はミュージアムがないんです」と言うと、必ず驚いていただけました(笑)。そのうちアート・センターがとても小さな展示室(アート・スペース)を得て、今、博物館相当施設となり、学芸員資格の教育に寄与していますが、きちんとしたミュージアムをつくるという最初の試みが、この慶應義塾ミュージアム・コモンズになります。

しかしながら、ここも小さいスペースという物理的制約があり、何となく隙間的に始まる中で、大学ミュージアムが、日本のミュージアムのメインラインと違ったところで何かできることがあるのではないかと考えました。

いっそ小さいのであれば、それから慶應は後発になるので、学内の様々な部署と連携して分散型ミュージアムという発想を持てないかと言うことで、名称も単なるミュージアムではなく「ミュージアム・コモンズ」で行こうということにしました。

大型のミュージアムを後発の大学が持つことは現実的ではないし、また、様々な部署が持っている所蔵品を1つの収蔵庫に集めてくるような中央集権的なあり方自体が、21世紀的ではないとも言えると思います。なので、何かそこをハブとして行き交うような機能を持つ、小さいけれど、機能的で軽やかな組織づくりと、機構づくりができないかと考えたわけです。

そこで、私たちは全体のコンセプトを「空き地」にしようと決め、どのように空き地性を持てるかということを工夫しています。

空き地とは一体何かということですが、東京都の美術館という公立の美術館と、プライベートな大学という、まったく違ったフェーズのところで仕事をしてきて感じるのは、日本のミュージアムというのは、フルパブリックであるか、プライベートであるかの、二極化した形で進行してきたのではないかということです。

しかし、そうではないオルタナティブが必要になってきているのではないか。学生と話すと、若い世代でも共有されている感覚だと最近実感しているんですが、ある種のメンバーシップ的な考え方、つまり厳格なルールではなく、ゆるいルールの中で皆が何かを共有したり、創造的に活動したりできる場をつくれないだろうかと思ったんです。それが「空き地」の発想です。

つまり、何となく共有されているルールがあって、その時々に合わせてメンバーも変わりながら創造的であるような場ができないかということです。また、遊具のない空き地というのは、皆が工夫して、自分たちで遊びをつくりますよね。例えば木が1本生えていたら、それを様々な用途として利用するようなことがある。そのようにKeMCoという建物自体が、様々な利用のされ方をするとよいと考えています。

公立を中心としたミュージアムは、現在、大きければ大きいほど身動きが取れなくなっているのが世界的な状況だと私は感じています。そうであれば、大学のミュージアムだからこそ持っている機動性というものに意味があると考えています。もちろん人が多く来てくれれば評価につながりますが、必ずしもそれが第一義ではないと思いますし、常に公共性を求められるというプレッシャーもそれほどきつくないのではないかと思うのです。

保坂さんの話にあったように、海外の大学ミュージアムが先駆的な活動をしているので、やはりユニバーシティ・ミュージアムはチャレンジングなことをできる可能性を持っているのではないかと考えています。

大学ミュージアムだからできること

岡室 今、渡部さんがおっしゃった機動性ということには非常に共感します。演博も攻める博物館を目指しています。博物館としては非常に小さいので、ゲリラ性ということをいつも意識してやっています。

サイズ的に機動性があるんですね。大学の学部で何か新しいことをやろうと思うと大騒動になりますが、演博は誰かがおもしろいことを思いつくと割とすぐにやれるところがあります。

保坂 演博や京都工繊の資料館の場合、大学側にプログラムの了承を取る必要がなく、独自に決めていいということになっているのでしょうか。

岡室 演博に関しては、どこかから了承を取ったり、大学から何か規制が入ったりすることはないですね。だから、非常に自由にやっています。

並木 当館の場合も、特に大学に諮るということはなくて、一応、年間計画でこんな展覧会をしようと話し合いますが、今のところどこからもクレームがついていません。

文化庁からの助成金も大学を通して申請するわけですが、それも、資料館が出したものが通りますので、あまり制約を受けているという感じはないです。逆に、資料館独自で、例えばミュージアム連携で、他の大学や他のミュージアムと組むといったことも、比較的自由にできていると思います。

保坂 そうなんですね。先ほど渡部さんからフルパブリックとプライベートの話がありましたが、本当に、今パブリックの側が息苦しい。ある美術館で起きた話なのですが、キュレーターが展覧会タイトルに「難民」という言葉を使おうとしたら、日本政府は難民問題は抱えていないとしているから、それをテーマにするのはおかしいと、途中でクレームがついたらしいんですね。

貸会場レベルであっても政治批判の作品が常に問題になる中で、岡室さんが言われたゲリラ性のように、大学ミュージアムが、学問の自由や大学の自治が認められている中で発言しやすい状況にあるのであれば、それを最大限生かしてほしいなと思います。自分たちができないことを仮託しているようで申し訳ないですが。

岡室 この間まで開催していた「Inside/Out ──映像文化とLGBTQ+」をやる時には、内部でも慎重論はあったんです。一口にLGBTQ+と言っても、いろいろな考え方があるので、どこかから叱られるんじゃないかと言われ、館内でも勉強を重ねて、かなり慎重にやりましたが、結果的には1つも批判はありませんでした。これもやはり大学ミュージアムだから実現したのかもしれないとは思っています。

渡部 そうですね。私も慶應に移った当初は昔の職場である美術館で取らなければいけないOKの数とあまりに違って驚きました。「こういうことをやりたいんですけど」と言い、所長が「はい、どうぞ」と言ったらできるというのは、ものすごい解放感があったのは確かです。

やはりそれはすごく重要なことで、規模が小さいからできる機動性もあるし、大学ミュージアムが持っている、ある意味でのアバンギャルディズム(前衛性)というか、学問の自由というところがあるのだとは思います。

残念なことに、いわゆる美術館は、おそらく私がいた頃より窮屈になっている感じがしていて、20年前には普通の公立の美術館で割に当たり前にできたことも、いちいち許可を取らなければならなくなってきている気がします。

われわれもアート・センターでやる年間企画は、運営委員会にかけるんですが、年間企画になかったものが突然行われても怒られることはない。思いついたらできるという機動性をもつというのは、大学ミュージアムの重要な役割だと思います。

今後、パブリックなミュージアムの方とも交流しながら、「ミュージアムでできないなら、ここでやらない?」というような協力のルートができてもおもしろいかなと思います。

岡室 一方、演博の場合、私自身も学芸員の資格を持っておりませんし、展示に関してはまったく素人なんですね。学芸員は今、4名いますが、かつては展示に関しては素人の研究者が企画することが多かったので、ともすれば専門性に偏りすぎてしまうという問題がありました。

確かに集客が目的化してはいけないと思うんですが、博物館が開かれたものになっていくためには、たくさんのお客さまに来ていただくことも意識しなければいけないのではないかと思います。それは演博の個別の問題かもしれませんが、やりたいことと社会的なニーズとの兼ね合いということも現在は重視しています。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事