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【特集:大学のミュージアム】
モノと知識と学習──キャンパス規模の視点と可能性

2021/04/05

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  • アンドリュー・シンプソン

    オーストラリア・マッコーリー大学名誉フェロー


知への欲求、収集への衝動

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは『形而上学』第1巻を次のように始めている。

すべての人間(シンプソンの引用ではmen)は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感官知覚[感覚]への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである。しかし、ことにそのうちでも最も愛好されるのは、眼によるそれ[すなわち視覚]である。けだし我々は、ただたんに行為しようとしてだけでなく全く何事を行為しようともしていない場合にも、見ることを、いわば他のすべての感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくるからである*1

ここで、主語として1つの性別だけを認め、他の感覚にまして視覚を優先するのは、古代ギリシャの文化的コンテクストの所産と言えるだろう。しかし、私たちが感覚を通じ知識を積み重ねることによって世界と関わるということは、動かし難い事実として今もなお認められる。アリストテレスが述べているのは、観察がより深い洞察への道であるということだ。つまり、知覚されるものと知覚する人の関係は双方向的なのである。私たちは世界から隔絶され、ただ立っているだけでは知識を得られない。そうではなく、知識は世界と相互に関わり合うことにより獲得される。私たちは現実の中で動き働くことによって現実を洞察するのであって、そこから離れていては理解に至ることはできない。知覚する人とされるもの相互の連関は非西洋的な知の体系の多くに認められる。ジョン・デューイやデイヴィッド・コルブのような最近の理論家が提唱する教育哲学も、この深遠で歴史ある一連の考えと軌を一にしている。

収集したいという衝動が人類共通の特徴であることは歴史が証明するところだ。現生人類に近いネアンデルタール人ですら、自然物のコレクションを作っていた(Monnier,2012)。あるコレクション中のモノを体系化し、名前をつけたいという衝動は私たち現代人が理解する分類学の基本である。16世紀には収集したいという衝動は「驚異の部屋」を生むことにつながった。「驚異の部屋」は現代の博物館の先駆けとされる。「驚異の部屋」は、世界に秩序があるという感覚をエリート階層に再確認させた。世界の秩序は、人の技と自然の間に連続性を設ける存在、つまり神性を持つ存在によって明瞭にされると考えられたのである(Impey & MacGregor, 1985)。

モノによる教育の可能性

モノは意味に貼り付き離れ難いと言われる。上述したように、古代からモノは世界を知る基本的な方法であった。モノはまた世界についての理解を他者に伝える際の焦点であり、それ自体が意味を具現化し、伝える容器でもある。モノは世界中のミュージアム・コレクションに見出され、学習と教育の多様な可能性を生み出す一次資料である。

モノが二重の性質、あるいは相反する性質を有すると指摘する研究者もいる(例えばThomas, 2016 が挙げられる)。一方で、モノは決定的で観察可能、容易に記述できる不変のものである。しかし他方で、モノは不変でなく、容易に再コンテクスト化することができ、幾重にも再解釈される。モノの価値は常に変化し続ける知の体系との関わりのなかで、大きく変動する。まさにこのモノとコンテクストのダイナミズムによって、モノは効果的な教育の道具になる。

モノを教育で使うことは常に喜びであり、多くの場合は特権である。なぜならモノは証拠としてみなされるからだ。つまり、もしそれが自然界に由来する標本なら、特定の種の特定の変種が存在したことを示す証拠になる。もしそれが人の技による物なら人類の才智かつ文化的信条の、あるいはそのいずれかの証左となる。人間の知の体系は、すべて本質的にはテクストとモノという2つの異なる形式の情報により構成されるとしばしば言われる。ロゼッタ・ストーンのような、テクストとモノ性を併せ持つハイブリッドも時にはある*2。 バランスの取れた教育機関において、大学ミュージアムは、図書館と同様、大学事業の根幹にある。大学図書館と大学ミュージアムの質が高いことで、学生は高等教育機関での学習経験の一部である新たな発見の旅を豊かに進められるだろう。

アメリカの教育哲学者、ジョン・デューイは、観察者とモノの関わりが両者の間で生じる交換により構成されると述べた。モノを使って教えたことがある教師なら、デューイの言っていることはすぐにわかるだろう。モノと関わることを通じて、学生は突然気づきや洞察を得ることがあるからだ。多様な感覚を動員させることで、オブジェクト・ベースト・ラーニングは具体的で経験的な教授法を使い、意味を生み出す。学習理論の研究者はこれを構成主義と呼ぶ。モノは意味を構築するのに役立ち、学習の旅における移動手段となる。

教育者がモノを考える際に有益な方法の1つが、葡萄の房とのアナロジーである。考えてみよう。そのモノ自体は房の軸にあたり、葡萄の粒は情報の様々なまとまりを構成している。熟練の教育者であれば、その葡萄の房の様々な部分を学生に紹介し、学生が自分なりの洞察を作り出し、自分にとっての意味を構築する機会を与えようとするだろう。

オブジェクト・ベースト・ラーニングとは何か

デューイのモノとの関与という考えを学習理論へと統合させたのは、別の教育理論家デイヴィッド・コルブであり、特に彼の経験的学習理論であった(Kolb, 1984)。コルブの理論には2つのレベルがある。つまり、学習には4つの段階からなるサイクルがあり、4つの別個の学習スタイルがあるという。コルブの理論は学習者の内的認知プロセスに関わる。つまり、コルブの考えでは、本質的に、学習とは、経験が転化し知識が創造されるプロセスとみなされる。

そのため、オブジェクト・ベースト・ラーニングはアクティブ・ラーニングの1つの形態だと言える。学生はよく考えながらモノを観察し、抽象概念化することを通じて、個々にアクティブ・ラーニングに取り組む。あるいは、アクティブ・ラーニングの社会的に構成された形態であるグループ活動を通じて、学習に参与する。視覚に訴えるだけでなく、モノは学生にそれに触れる経験ももたらす。このような経験は学生の意欲を促す好機となり、モノの形や機能に関わる質問を尋ねることで、学生が自分の考えをまとめ概念化するのに役立つ。オブジェクト・ベースト・ラーニングを用いた授業では、教師はむしろファシリテイターかガイドとして振る舞い、学生はモノを中心とする相互の交流を通じて自分にとっての意味を構築していく(Hannanet al., 2013)。これは学習への社会構成主義的なアプローチであり、学生は、既存の共有された概念的知識を基に、モノとの交流を通じ、知識と理解を発展させていく(Chatterjee & Hannan, 2015)。こうして、学生はモノに関わる様々なアイディアやプロセス、出来事を探究し、観察を複雑で抽象的な思考や概念に結びつけ、既存の前提を疑い、問い直すことができる。

モノが特に刺激的になるのは、それを注意深く扱い、その細部まで学ぶプロセスを通じてである。モノは抽象的な経験の下地となり、知識を思い出しやすくし、好奇心を掻き立てる(Hooper-Greenhill, 1999)。このようなモノが与える刺激は、学習の認知や意欲、感情のプロセスに役割を果たす。つまり、何年経ってもすぐに思い出すことのできるような、学習内容の定着に役立つ印象的な授業を生み出すことができるのである(Simpson & Hammond, 2012)。

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