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【特集:大学のミュージアム】
大学のコレクションをつなぐ──慶應義塾の美術品管理運用委員会の取り組み

2021/04/05

  • 桐島 美帆(きりしま みほ)

    慶應義塾大学アート・センター所員/学芸員

大学には多くの文化財や美術作品が集積する。歴代の教授の肖像画や彫像のほか、卒業生や関わりのある芸術家からの寄贈など、さまざまな縁によって作品がもたらされる。しかしながら大学は、美術館・博物館のような、収蔵と保存、展示を前提とした施設ではないため、作品を誰がどのように管理するのか、責任の所在があいまいになりやすい。そのため作品が作品としてみなされず倉庫で眠り続ける、あるいはその価値が見過ごされて廃棄されるといった悲劇が時折発生する。

創立当初より数多くの作品が集積してきた慶應義塾でも、長い間管財部門による財産管理以上の対応はなく、それらは各施設で分散して管理されていた。次第に管理体制の問題が認識されるようになり、2002年に発足したのが「美術品管理運用委員会」(以下、本委員会)である。本稿では総合大学では稀有な例といえる本委員会の取り組みについて紹介する。

委員会の発足と概要

本委員会は1999年の「慶應義塾所蔵美術品管理プロジェクト」の発足後、2002年に設置された。事務局を管財部とアート・センターが務め、メディアセンター、広報室、斯道文庫、福澤研究センターなどの各部門、そして一貫教育校の教職員が委員会のメンバーを構成しており、全塾的な組織となっている。作品は一貫教育校から大学の各施設まで、さまざまな場所に分散して保管されているため、その全てを把握することは容易ではないが、各所から委員が選出されることで、作品の把握が進んできている。本委員会は年2回の定例会を開催しており、作品に関する情報共有、保存修復の相談、寄贈作品の検討などを行う場として機能している。毎年、保存修復のための予算も確保されている。2002年の発足以降、多くの作品が本委員会によって見出され、アート・センターを通して専門家によるケアが行われた。以下、本委員会が深く関わっている事例を記す。

北村四海《手古奈》の再発見と修復

慶應義塾には日本における大理石彫刻の先駆者・北村四海(きたむら しかい)の《手古奈(てこな)》が所蔵されている。慶應義塾と縁の深い北村四海作品は数点が所蔵されているが、その中でも《手古奈》は等身大の彫像で、近代日本における最大規模の大理石作品である。本作は1909(明治42)年の第3回文展出品作で、文展終了後、塾員の仲介で図書館(現在の図書館旧館)の新築祝いとして寄贈され、竣工後の1912年4月に図書館玄関ホールに設置された。しかしながら、本作は1945(昭和20)年の東京大空襲により被災し、2つに割れて両腕部分を失うなど大きく破損。その後地下倉庫に収納され、約50年間、人目に触れず保管されることとなる。

北村四海《手古奈》(撮影:新良太)

1999年、倉庫整理の機会に当時アート・センターで学芸員をしていた柳井康弘氏により再発見され、修復家による調査を踏まえた修復と再展示に関する提言がなされた。その後本委員会の発足を機に修復の検討が本格的に始まり、四海の貴重な現存作品である本作の修復と再公開が決定。どこまで修復し、どこまで手を加えず残すのか、修復家の助言や周辺資料などの調査を経て議論が重ねられた。その結果、歴史の中で被った変化も作品のオリジナリティーの一部として尊重することを基本方針とし、復元的な美観修復は施さないこととなった。つまり空襲による火災で被った作品のダメージは、慶應義塾の歴史と運命を共にした「記録」として提示することにしたのである。

ただし、2つに断裂していた部分は接合し、起立して展示できるようにした。また、汚れをどの程度除去するか等については、修復担当者とアート・センターの担当者の間で協議しながらその度合いが決定された。修復後、本作品は慶應義塾創立150年記念「未来をひらく福澤諭吉展」(2009年、東京国立博物館ほか)で約60年ぶりに展示、公開された。そしてその後、本来の展示場所である図書館旧館の玄関ホールに常設展示され、現在でもその場所で作品を見ることができる。本作品に関しては、時間をかけて作品の在り方について考えを巡らせ、共有できた点において、美術品管理運用委員会が有効に働いたといえるだろう。

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