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【特集:3. 11から10年】
座談会:震災復興から考えるレジリエントな社会

2021/03/05

記憶を伝えるためのプロセス

 菅原さん、いかがでしょうか。

菅原 私は防潮堤を勉強する会というものをやってすごく感じたのですが、上からの計画で「ここは15メートルの防潮堤をつくります」というのでは、本当の安心、安全というものは得られないのではないかと思うんです。

防潮堤をつくるにしても、まずはやはり住民に計画を理解して納得してもらうプロセスが必要ではないか。そのためには、住民が津波の防御ということに関して、いろいろな勉強をしなければいけないので、大学などから先生をお呼びして、防潮堤の役割とは何だろうか、他に防災の方法はないのかということを勉強したんです。

そういった機会を設けることによって、必ずしも賛成はしないけど納得してもらえば、自分たちの子や孫の世代に、「われわれは、こういうことで納得していったんだ」と伝えていくことはできると思うんです。

これをやらないと、「安全ですよ」と上から言われただけで、何も後の世代に伝わらない。何世代か後には記憶が薄れて、防潮堤があるから大丈夫だろう、みたいな話になり、結局逃げることができなくなってしまうことを繰り返す危険もあると思うのですね。

防潮堤をつくるかどうかという議論の際、私たちの目の前の住人の方は、誰も高い防潮堤は望まなかった。むしろ、すぐに高台に逃げられるための避難路をつくったほうが有効で、予算も少なくて済むと主張したのですが、行政はそれを取り入れず、防潮堤の予算なので防潮堤をつくると言う。

「避難路の予算は、災害復旧では出ません」と言われて、結局防潮堤をつくるほうにいかざるを得ない。そうであるなら、住民が本当に参画して、納得してつくっていくということが、非常に大事だと思っています。

また、ハードの部分に関しては、分散化ということが大事だと思います。多重防御もその1つで、1つの方法やものに頼るだけではなく、いくつかのことを組み合わせる。あるいはこちらの施設が駄目になっても、他の施設は使えるようにすることが大事です。

一方でソフトというのは、意識に関わる問題ですから、やはり、住民が日常から身の回りのことをよく知っておくことが大事ではないかと思います。一本道路を知っておくだけで、全然逃げ方が違ってきます。もう1つは、連携軸、つまり何かあった時にすぐ連携できることです。ここは、ハードの分散化に対してソフトの集中化のような仕組みをつくっていく必要があるのかなと思います。

災害前後の情報の共有はすごく大事だと思います。われわれは行政のほうに、とにかく現状について数値化、可視化して情報を早く出してくれ、後で変わってもいいから、と言うのですが、行政は「そういうやり方はまずい」と絶対に出さないところがある。

また、住民にとって、このまちがこれからどうなっていくのかを考えるために、行政が将来像となる絵を出してください、とお願いをしても、「買収が決まっていない土地の上には絵を描けない」と言う。このまち全体が、どういうまちを目指すのか、空想図でもいいから描いてくださいと言っても、「空想図なんて描けない」と言われます。

しかし、絵を描くことで住民の関心にもなりますし、長い復興期の希望にもつながっていくのではないかと思っています。

ビジョンをつくる住民からの目線

 私の活動は空想図を描いてばかりのような気がするのですが、驚いたのは、南相馬の太田地区で震災から2年たった頃、私たちが入るまでは、ほとんど地元で会議を開けなかったんですね。これからのまちをどうするか、まったく考えられていなかった。

それで、今後どうするのかを建築、景観、それから私たちのような情報の人間が集まって、未来ビジョンを皆で一緒につくりましょう、とワークショップを開いたんです。気仙沼の松岩地区でも同じことをやりました。

東日本大震災からの復興が以前の大災害と違うところは、少子化、過疎化が進む中、人が果たして戻ってくるかという問題です。30年前は30年後の未来について、描きやすかったのかもしれませんが、今のこの難しい時代には、30年後にどうなるのか、まったく予想できない。その中で未来の絵を描かなければいけないのは大変なのだと思います。

例えば、私の余命はあと10年だから、高台に移転してローンを組んで過ごせるわけではないから、安い公営住宅でもいいと考えるのは当たり前ですね。でも、孫の世代までこの土地に住んでほしいと思ったら、高台のほうへ移転しましょうとなる。

コミュニティーとは、そこの土地に長く住まれた方によるつながりですから、震災によってそれぞれの条件の下で住まいが再編されると、リセットされてしまうわけです。だから、この新しい状況下の復興されたまちの再生というのは、少なくとも一世代、二世代をかけないと、新しい社会のつながりにならないのではないか。

例えば、高台のほうへ引っ越すことも、昔は車を自由に運転できるので問題なかったと思いますが、今、高齢化した住民の方は、こんな坂道を毎日上がり下がりしながら買い物をしなければならないのはつらいという。これは当然だと思います。

行政も予算のある年だけ頑張るのではなくて、次の10年、次の世代のことを射程に入れないといけないと思います。ハードウェアができて、それをどうやってマネジメントしていくのか。またはイノベーションかもしれません。せっかく立派なインフラをつくっても、その発想をさらに展開していかないと、地域にとってのチャンスをつくれない可能性もあります。

上から与えられた目標ではなくて、皆で一緒にまちをつくっていくんだという住民からの何か新しい動きや面白い動きがありましたら、ぜひご紹介いただければと思うのですが。

紙田 宮古市では、以前、駅前の開発が住民の反対でとん挫したことがあり、市役所の人は住民参加ということに拒否感があったようです。「住民参加によって皆さんの意見で、どうやって復興していくかというのを考えましょう」と被災直後に市の方にお話ししたら、今はどうやって自分の生活を取り戻すかだけで精いっぱいで、将来のことなんかとても考えられないのではないか、というご意見でした。

それでも粘り強く意見を聞くべきだということで理解が得られ、市が主導して住民の方々に参加していただいて「復興まちづくり検討会」というものを始めたんですね。検討会での意見を市長に提言したところ、後は市のほうに任せてくださいという話になったんですが、田老地区では都市計画課が主導して決めたことを鵜呑みにしていいのかと、漁協の組合長から住民主導のまちづくりを進めたいというご相談があり、皆で相談をして、まちづくり協議会組織をつくることにしたんですね。

これは市役所には非常に煙たがられたんですが、完全に住民主導でつくりました。メンバーとしては、漁協の組合長、市会議員さんや消防団分団長など、いろいろな人に参加してもらいました。

例えば、市のほうでもハザードマップや避難マップというものは新たにつくってくれていたのですが、実は、県内では、この震災で90名の消防団員の方が避難誘導活動、防潮堤の水門を閉める活動などで亡くなっているんです。そこで避難誘導をもっと効率化して、この家にはもう人はいないです、この家にはまだ人がいますということが一目で分かる札をつくりましょうと検討しました。

また避難マップは、日々道路の場所や嵩上げされた場所などが変わっていくので、毎年更新しましょうということで、自分たちで避難マップをつくりました。「一回逃げたら二度と戻らない」とか経験した教訓を忘れないように毎年書く欄もつくったんです。

高台に移転される方は、すごく不安を感じられていたので、一度集まってみませんかと呼びかけ、200人もの方がいらっしゃって、皆で不安を出し合いました。高台の名称も市では考えていなかったので、自分たちで考えアンケートを取り「三王団地」としました。皆でガイドラインを考えたり、擁壁があるまちというのをあまり知らなかったので、ルールづくりをしたり、市が復興事業で精いっぱいの状況の中、自分たちならではの問題点を自分たちで出し合って解決策を考えるということを今も引き続きやっています。

 住民主導でのまちづくりというのは、震災の後だからこそできることなのかもしれません。とても素晴らしい取り組みをされていると思います。

前向きなプロジェクトの循環に

 菅原さん、気仙沼において面白い、新しい取り組みはありますか。

菅原 私が担当してきた内湾地区では住民の自治会などの人たちの集まりの組織でいろいろなアイデアを出し、このエリアをどうしようかといろいろ考えてきました。

しかし、アイデアは出てきても、結局、住民組織だけでは限界があり、プロジェクトを起こして、それを進めていくためには、会社組織のような推進力のある組織でなければいけないということで、気仙沼地域開発株式会社という震災前からあった休眠状態だったまちづくりの会社を使って内湾地区の開発をやっていくことしたのです。

新しい施設群を全部で3棟建てて、今、そこを運営しています。この中には飲食店や物販店も入ってもらい、コロナで大変だったのですが、去年の7月にグランドオープンをやって、たくさんの方に来ていただきました。

そこに地元の人たちと外の人たち75名が出資し合ってクラフトビール工場もつくったんです。別に特産品をつくるのではなく、クラフトビールというものを核にしながら、若い人から年配の方々まで皆、集まってビールを飲めるよな新しいコミュニティーをつくっていこうということです。

それが非常に好評を得て、3、4年後までの売上計画を達成してしまいました。うちの日本酒もそのぐらい売れてほしいなと思ったのですが、なぜかクラフトビールだと皆、飛びついてくる(笑)。

やはりそういうプロジェクトを1つ1つやっていくことが、すごく大事なのではないかと思っています。そうすると、そこにまたいろいろな人たちが集まってくる。人が集まると、そこからまたいろいろなアイデアが出て、次のプロジェクトが起きてきます。

加えて、内湾のエリアにITベンチャーが東京から入ってきて、気仙沼のデジタル化を支援しようとしています。無料の支援ではなく、きちんと対価を払って、支援メニューを受けて企業が成長しようとしています。こういう、経済的な裏付けを持った持続可能性を追求しながら新しい企業が入ってきて、そこに人が集まり、次のことが起きてくるという循環を、まだ小さいエリアですがやり始めています。

 従来のやり方ではなく、復興の中から生まれた意識や、人のつながりを生かした取り組みが、また新しい希望をもたらすのですね。福島のいわきはどうでしょうか。

福迫 今のお2人のお話を伺うと、正直、福島についてはフェーズが違うというか、先程申し上げましたように、事例を挙げようと思っても少ないのです。

福島でも、例えばイノベーション・コースト構想などが復興事業として挙げられますが、どうしてもまだ全体として官主導、外資依存というところが大きいのが実情です。それは非常に大きな復興のパワーにもなりますが、まちづくりという点では住民主導ではなく、むしろ住民不在でさえある。

これは観念的な意味ではなくて、実際に住民が存在しないところでまちづくりが進められていたりする地域もあるので、そうした新しい動きに住民が主体的に関わるという点でいうと、福島はかなり遅れている。

これには当然、原発事故という問題があるわけで、非常に忸怩たる思いもあるのですが、ほかの被災2県も含めた他地域の事例を参考に、地域住民や民間企業、行政でも取り組んでいかなければならないなと思っています。

 震災後、第3回国連防災世界会議も2015年に仙台で開かれ、仙台防災枠組もつくられました。この復興のプロセスを通して、震災復興あるいは災害マネジメントの国内、国際の観点から見ると、小檜山さんはいかがでしょうか。

小檜山 防災の観点ですと「自助、共助、公助」という言葉がありますが、この3つの連携が防災力を高める上で非常に大切であると、東日本大震災の経験後、改めて認識されています。

先ほど菅原さんから防潮堤を納得して次の世代に引き継いでいく、というお話がありました。やはり地域に愛着を持つこと、自分たちの祖先から受け継いだこのまちを好きになって、それをまた後世に伝えていくということが、レジリエンスを高める上で非常に大切な要素ではないかと思います。

共助の面で言えば、近隣の方々との助け合い、あるいは様々なNGO、NPOとの連携といったことがあるわけですが、地域への愛着というものが、人と人をつなげる上でも非常に大切な役割を果たしていくのではないかなと思います。

「稲むらの火」という津波の話をご存じだと思いますが、あの濱口梧陵が和歌山で行った津波からの復興。壊滅的な村を捨て、去っていく人が多く出た中で、防潮堤を築く事業を自分の私財を投げ打って行い、仕事を生み出して離れていく村人をつなぎとめた。そして大切なのは、つくった防潮堤が、100年後に再び襲った津波から子孫の命まで守ったということです。

こういった地域を愛して、後々まで大切な地域を後世に伝え、後世の命もしっかり守っていく。そういったまちづくりを行うためには自助、共助、公助、住民、それから様々な企業や商工会など経済の担い手、そして国、自治体との連携が上手く回っていくような仕組みを考えて計画を立て、それを実行に移すということが大切かなと、あらためて皆さんのお話を伺って、再認識した次第です。

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