三田評論ONLINE

【特集:3. 11から10年】
災害社会学からみた東日本大震災からの復興

2021/03/05

小渕浜の高台に建つ五十鈴神社の鳥居脇には低地居住の戒めなどが刻まれた明治、昭和の津浪碑がある(2021年2月撮影)
  • 大矢根 淳(おおやね じゅん)

    専修大学人間科学部教授、日本災害復興学会会長・塾員

今、浜の防潮堤の建設

宮城県石巻市小渕浜。東北のリアス式海岸の南端、牡鹿半島の1つの漁村で今、防潮堤の建設が始まった。海に沈む夕日の眺めが売りの民宿の前に今ごろになって防潮堤が造られ始めたこと、その工事の砂塵・騒音で(このコロナ禍で)窓を開けての通風もままならないことを女将は嘆き憤っていた。

東日本大震災の発災から間もなく10年となる。政府は集中復興期間の5年、そしてその後の復興・創生期間の5年を経て、まだまだ未完の事業が残されており、長期化する被災生活への支援が必要であるとして、復興庁の設置期間を10年延長して各種事業の継続を決めた(2019年12月20日閣議決定)。

ちょうど昨年の今ごろ、2020年3月8日朝のNHK「日曜討論」では、震災10年目に向けて復興の現状に関する議論が展開される予定であったところが、「(前半)新型ウイルスどう向き合う/(後半)震災9年復興はいま」として急遽番組内容は変更・二分されて、復興議論の時間は半減となり後回しとなった。巷の関心は、復興の現況よりもコロナ禍にシフトしていた。記憶・関心の「風化」、南北の「温度差」に触れ、阪神・淡路大震災に続いて起こった地下鉄サリン事件のこと、4半世紀前のあの頃のことが思い起こされた。

この討論番組では震災10年目に向かう現状について、まずは復興住宅や復興道路の建設が進んでいることが示された。その後、直前に行われたアンケート結果から、「今も被災者だと感じている」人が岩手県で62%、宮城県で55%いて、公共事業竣工事情と「復興の実感」の間でかなりのズレが生じていることが紹介された。これを見て室崎益輝氏(兵庫県立大学教授、日本災害復興学会初代会長)は、現況をビルの上り階段になぞらえて「復興の踊り場」と表現した。政府では予算化された事業の竣工状況を語るが、それは被災者が抱く復興の実感とは大きく乖離している。

石巻市小渕浜、海辺の民宿前で建設が始まった防潮堤 (2020.11.27 筆者撮影)

「復興とは何かを考える」研究会

私が参加している日本災害復興学会ではこの2年間、第2期目の「復興とは何かを考える」研究会を組織して議論を進めてきた(学会HPを参照いただきたい)。

同学会は阪神・淡路大震災の10年総括検証が各界・各層で行われたことを受けて2007年度末に創設され、その当初の2年間に、第1期の「復興とは何かを考える」研究会を展開した。阪神以降10年、非都市型災害が続発して、復興の名を冠した公共事業(復興都市計画事業=土地区画整理事業+都市再開発事業等)の竣工をもって復興を語ることは妥当ではなかった。そこで、復興とは何がどうなることなのか、誰が何をすることなのか……、古今内外各層の取り組みや解釈を精査し直す作業が行われた。そしてその議論がひととおり進んだところに東日本大震災が発生して、学会員は所縁(ゆかり)の地に参画していった。私の場合、それは冒頭に紹介した小渕浜であった。

三田で大学院在籍中の1990年代初め、宮家準(ひとし)教授の演習授業で『宮古市史(下)民俗編』の編集の現場に参加させていただき、「津波の民俗」について執筆する機会をいただいた。その時、先生にご紹介いただきフィールドに携行して読み深めたのが津波復興研究の古典『津浪と村』(山口弥一郎著、恒春閣書房、1943年)であった。山口はその巡検を小渕浜より始め北上していったと記していたから、私はその後4半世紀、折に触れて三陸の浜を同書の記述に沿って歩き、東北固有の復興経緯を辿ってみた。私にとって小渕浜は復興研究の基点であり所縁・・の地となっていた(詳細は、大矢根、2015をご覧いただきたい)。

被災地調査では業績作り逃げ、いわゆるヒット・エンド・ラン式調査は厳しく戒められる。学会ではローカルの被災者と膝を突き合わせて語り明かす「車座トーク」を開催している。そして毎年、全国の過去の諸被災地で復興に奔走した被災者らを招き、自らの体験・知見を語り合い共有する「円卓会議」を重ねている。支援をいただいて(take)取り組んだ実績・ノウハウを次の被災地に伝える(give)わけだが、参加者からは、そこにはgive & take を超えたgive & givenの関係性があるとの感想を聞く。自らの体験を適切に言説化し得た(伝えることができた)時、この奮闘努力の思いが腑に落ち、初めて復興が実感されたのだという。

被災者が復興を実感するには、その体験を適切に言説化し納得する過程、その時間と機会が必要となる。高台や防潮堤などの土木工事や復興公営住宅建設が竣工することで復興が完了したとするのでは、まだまだ納得しない/できない被災者が多々いるのである。第2期の「復興とは何かを考える」研究会では、そこを考えてみた。小林秀行氏(明治大学講師=今年度、三田で「災害の社会学」を担当)のとりまとめによれば、おおよそ以下のとおり(小林、2020a、2020b)。

近代化以来、数多くの災害を経験してきた我が国には、これに対峙する政策的スキームが一定程度まで形成されており、それが経路依存性をもつ形で現代にまで引き継がれていて、それは積極的な公共投資、(福祉国家の試みの一部としての)都市基盤再整備として実践されてきた。そしてそこでは、基本的人権を制限しつつ「公共の福祉」が優先されて、いわゆる復興の型(災害復興のパターナリズムとも言われる)が形成されてきた。被災地における生活者の次元で、その土地で災害の後も再び生きていく覚悟を含めて当事者によって語られる「復興」という言葉が、公共事業としての復興政策によって回収・上書きされて、そこにおいては「復興」が公共の福祉という意味での多数者への利益を示す政策として立ち現れ、被災地の生活者にとって抗いがたい正しさとなって立ちはだかる。そこに、国際的にオーソライズされた言説、災害復興の目標とされる国連スローガンであるBuild Back Better(よりよい復興)が覆いかぶさり、これがいわば「ショック・ドクトリン」(惨事便乗型資本主義)を導入する経路として作用し、また、「創造的復興」という日本独自の言説が「ショック・ドクトリン」を覆い隠す麗しい言説として響いてくる。

しかしながらその一方で、このたびの東日本大震災の現場各層での研究実践を通じて、被災者の奮闘努力の模様と合わせて、そのしたたかさ、レジリエンスの実相が数多く把握・確認されてもきた。大災害という外部の自然条件を文化的・社会的要件という内部システムに取り込み転向させることで、創造的破壊を生み出し、災禍に順応するための自身の破壊と修復を自らによって選び取る仕組みである。それらの事例は、例えば、津波で被災した小漁村における取り組みとして観察されてきた(大矢根、2015)。そこでは、生活を取り戻し組み立て直していくために、集落で「熟議を通じて見出された『自分が自分に負う』」(齊藤、2018)責任、それは自己責任論としてではなく被災現場の臨床経験、当事者の語りから把握されてくる事実として観察されてきた。被災当事者がそれぞれにこうした覚悟や納得を抱きつつ取り組む生活再建の実践、これらを丁寧に渉猟しながら、当事者の「生」を成立させる、直接的な当事者である被災コミュニティによるガバナンスの権利がさらに認められるべきことが、このたびの「復興とは何かを考える」研究会で把握された。

こうした生活再建過程の経験(復興)が多角的に語られ共有される場でこそ、復興の実相は浮かび上がってくる。

「車座トーク」@ 宮城県七ヶ浜 (日本災害復興学会ニュー スレター No.18, 2014 より)
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事