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【特集:3. 11から10年】
座談会:震災復興から考えるレジリエントな社会

2021/03/05

  • 菅原 昭彦(すがわら あきひこ)

    気仙沼市住みよさ創造機構理事長、気仙沼商工会議所会頭

    1985年成蹊大学卒業。株式会社男山本店代表取締役社長。スローフード気仙沼理事長。震災後は本社と倉庫を全壊流失した会社の復旧を行いながら気仙沼市震災復興会議委員として、市域の復旧・復興に取り組む。

  • 福迫 昌之(ふくさく まさゆき)

    東日本国際大学経済経営学部教授・同大学副学長

    塾員(1991商、93社修)。シンクタンク等を経て1997年東日本国際大学専任講師。2007年より同教授。震災以降、いわき市の復興に携わる。「東日本大震災復興の事例収集・調査分析事業」有識者会議委員。

  • 紙田 和代(かみた かずよ)

    ランドブレイン株式会社取締役、慶應義塾大学理工学部非常勤講師

    2006年東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻後期博士課程修了。博士(工学)。東日本大震災直後から岩手県宮古市の復興計画~復興事業に携わり、宮古市田老では被災者が集まるコミュニティ・カフェを運営。

  • 小檜山 雅之(こひやま まさゆき)

    慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科教授

    1995年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了。博士(情報学)。理化学研究所地震防災フロンティア研究センター研究員等を経て現職。専門は構造工学、防災学等。日本地震工学会理事など歴任。

  • 厳 網林 YAN,Wanglin(司会)(ゲン モウリン)

    慶應義塾大学環境情報学部教授

    1982年中国武漢測絵科技大学卒業。92年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。博士(工学)2007年より現職。専門は地理情報科学等。気仙沼市住みよさ創造機構副理事長として震災復興に携わる。

震災復興とのかかわり

 本日は、お集まりいただき有り難うございます。この3月で東日本大震災から10年を迎えることになります。私は、震災の年はちょうど海外留学をしており、カナダからテレビ越しに被災の様子を見ていました。すぐに大学に連絡したんですが、2日たっても誰からも返事をもらえませんでした。

夏に日本に帰ってきて、すぐに復興に関わりたいと思い、当時、福島の原発事故のこともありましたので、再生可能エネルギーから関われないかと思い、気仙沼に飛び込んでいきました。この10年、いろいろなことで気仙沼とのお付き合いを続け、菅原さんには大変お世話になっております。

まずは自己紹介も兼ねて、復興にどのような形で関わってきたのか、簡単にご紹介いただければと思います。

菅原 私は、本業は宮城県気仙沼で男山本店という造り酒屋の社長をやっておりまして、震災前から気仙沼のスローフード運動などを進めていました。震災の時は商工会議所副会頭という立場でしたので、気仙沼市の復興計画の委員になりました。6月から会議が始まって、9月には復興計画を作るという荒業を市長さんたちと一緒にやってきました。

その後も復興の中で、気仙沼市の内湾地区という、港の一番奥で、目の前が海というエリアの復興まちづくりに関わり、そこの代表も務めました。平成25年から商工会議所会頭になりましたので、現在は地域の産業振興にも携わっています。最近はコロナ禍の経済対策のことで手いっぱいになってきているのですが。

厳先生との関わりは、「気仙沼市住みよさ創造機構」という組織をつくり、そこの代表者も務めさせていただいているところから始まります。

 福迫さん、お願いできますか。

福迫 私は福島県のいわき市にある、東日本国際大学に勤務しています。慶應で社会学の修士を終えた後、縁あって出身地であるいわき市の大学に勤めることになりました。地元ということもあり、この20年来ずっと、いわき市および福島県のまちづくりや地域活性化に携わり、自治体や商工会議所等の団体と活動してきました。

10年前の3. 11は大学のキャンパスの中で経験したわけですが、そこからは地域活性化の延長で地元の復興に関わっています。昨年度と今年度の2カ年にわたって、復興庁の東日本大震災の事例収集・調査分析事業の有識者会議に福島県の担当としても、参加させていただいています。

 私はあるエネルギー活動団体のつながりで、福島の南相馬の太田というところの復興計画の活動にも参加していたことがあります。

次は、紙田さんお願いできますか。

紙田 私は今、都市計画のコンサルタントとして働いているのですが、小檜山先生にお声掛けいただき、4年前から慶應の理工学部システムデザイン工学科で「都市・建築のレジリエンス」という授業を受け持っております。

建築学科卒業後に建築設計の仕事に従事したのち、都市計画のコンサルタントに転職し、阪神・淡路大震災の復興住宅のあり方の検討や密集市街地を災害に強いまちにするという仕事に携わり、その後も震災、大火、豪雨災害等の災害復旧、復興の仕事に携わってきました。

東日本大震災では、国土交通省から委託された復興パターン概略検討調査を岩手県宮古市に単身赴任で約6年間行っていました。宮古市の被災33地区全体の復興支援を行ったのですが、そのうち「万里の長城」と呼ばれる巨大防潮堤で有名な田老地区で、被災された方々が設立した復興まちづくり協議会の事務局として、継続して深く関わっています。

田老地区復興まちづくり協議会では、震災後8年目までは「田老地区復興まちづくり計画」というものを策定し復興に向けた取り組みをしていたのですが、その後、もう「復興」の文字は取ろうということで「田老地区まちづくり計画」と、より将来に向かった計画の策定をして活動を続けています。

 最後に、小檜山さんお願いします。

小檜山 私の専門は建築構造と地震工学で、防災住まいづくり・まちづくりなどの研究を幅広く行っています。

研究室では、以前いわき市の復興まちづくりに関する研究に取り組んだことがあり、市役所・自治会・商工会議所のご協力も得ながら聞き取り調査などを行いました。

阪神・淡路大震災の時に、災害公営住宅で独居老人の方々が孤独死をするという問題がありました。いわき市で、この問題の解決のため研究に取り組んでいたこともあります。3. 11の日がめぐるたびに、新聞報道などで孤独死の問題が報じられ、コロナ禍がさらに拍車をかけてしまうのではないかと心配しているところです。

紙田さんからもご紹介がありましたが、2017年度から3年間、東京都都市づくり公社のご支援を受け、理工学部に寄附講座を開設し、学部と大学院の防災まちづくり・建築デザインの授業を行ったり、一般市民向けに防災まちづくりのシンポジウムを開催したりしてきました。

学会活動としては、日本建築学会で私の兄弟子にあたる京都大学の竹脇出先生が今、会長を務めており、レジリエント建築という、災害が起こっても素早く復旧できるような建築の普及を目指すことにも携わっています。

まだら模様の「復興」

 皆さん多様な活動をされていて、福島、宮城、岩手の3県、それぞれ詳しい方が揃っています。

早速「レジリエンス」というキーワードが出てきました。この言葉は3. 11の前は、日本ではあまり聞かれなかったような気がします。「レジリエンス」という言葉は日本語に訳すと大変難しい。抵抗力、復元力など、場面に応じて理解が様々です。

日本では、まず「復興」がピタリとはまる言葉として広く使われるようになり、定着しているように思います。どれだけ復元、復興できているのかという意味合いではかられているように感じます。

まず、この10年間で、果たしてどこまで復興、または復元できているのでしょうか。

福迫 被災3県の中でも、やはり福島県は特別だと言われます。言うまでもなく原発事故によるものですが、ただし、どのように特別なのかということも、また難しい問題かと思います。

そもそも「復興とは何ぞや」、「どこまで行けば復興が終わったと言えるか」ということもありますが、福島県では、元に戻す「復旧」ではなくて、震災前より輝く「復興」を目指そう、といった趣旨のスローガンが至るところで掲げられ、これが呪縛になっているような気もしています。

特に太平洋沿岸の浜通り地域ですね。いわき市は浜通り地域の一番南端で、北には南相馬市や相馬市、そしてその間の双葉地区に原発が立地しているという状況です。浜通りをこの3つに分けると、極端にまだらな状況です。双葉地区では、いまだに住民がほとんど帰還できないところもある。

一方いわき市は、一時期「復興バブル」と言われたような状況があり、地価の上昇率が全国一で、経済的には非常に潤ったと言われる。このまだら模様というのが復興の難しいところで、さらに細かく見れば、例えば経済的にも豊かになった人や企業と、完全に取り残されている部分があるのです。

先ほどお話があった災害公営住宅など、まだ震災の爪痕は確実に残っています。だから、震災から10年で復興が進んだとか、進まないとは一概に言えない。進んでいることは進んでいますが、その先の絵ということで言えば、福島県に関しては正直描かれていない。

進んではいるけれど、どこに向かって進んでいるのかが不明確なまま、とにかく元に戻す以上の活性化を、ということで、過剰投資の問題もあります。これは多くの地方で抱える問題と共通するところがあると思います。

客観的なところで、「分析・事例収集事業」の観点から言いますと、今後に活かせる事例として取り上げられるのは、宮城、岩手と比べ、どうしても福島は数が少ない。まだ福島の場合、緒に就いた事業が多く、なかなか難しい状況かと考えています。

 宮城の気仙沼はどうでしょうか。

菅原 たぶん震災被害と、そこからの復興に関しては、それぞれの土地で被害の受け方も違いますから、今、お話があったように、各地域で全然状況が違うんだろうと思います。

気仙沼の場合、海のそば近くまで山が迫っていますから、浸水面積は意外と少なかったんですね。全体の5.6パーセントぐらいで、なおかつそこに産業が集積していたのです。

商工会議所の事業者の方は80パーセントの方が浸水の被害を受けている。それに対して家屋は41パーセントぐらいです。それでも9千世帯ぐらいあるのですが、平らなところに産業集積があり、そこが今回の津波で一番被害が大きかった。同じ地域の中でも、津波の被害に遭ったところと残ったところが混在しているのが、気仙沼の特徴かと思います。

陸前高田や南三陸などは津波でごそっと町ごとやられてしまった。これに対して気仙沼の場合、残ったエリアのほうが圧倒的に多い。このことが一気にいろいろなことをやろうとしても、なかなかすぐに進まない状況を生んだということがあります。

10年経つとハード面でのいわゆる復旧工事と言われるものは、ほぼ最終盤に来ており、本当に見たこともないようなまちができ上がってきているんです。

 全部ピカピカですね。

菅原 新しい道路や橋・建物ができ、ある意味、素敵と言えば素敵ですが、何か今までのまちとは全然違うものになっているのを、われわれの中でも感じることがあります。

今、残っている工事は防潮堤で、これはもう数年かかるのではないかなと思います。ハード面については本当に今までにないぐらいのものができているので、それが過剰投資になるかどうかは、これからわれわれ暮らす側の力量にかかってくるのかなと。

一方で、よく言われるソフトの部分、社会的な面では多くの課題がまだ残っていると思います。そもそも震災の前からあった課題が、震災で顕著になって、さらに復旧、復興の間に課題が加わっていくという繰り返しです。これはどこまで行っても、たぶん終わらないという気がしています。復旧、復興がそのまま地方創生の流れに入っていったり、今で言うとコロナ対応に入っていったり、エンドレスになってしまっているような感じなのです。

例えば産業面で言えば、水産加工品などの販路の問題を何とか克服しようと、皆さん知恵を出し合い、新しい売り方を開発しながら進んできました。人手不足も深刻でしたが、いろいろなところからアイデアを集めて、何とか復興しようとやってきました。

そういう意味では、スピードが早かったか遅かったかは別にして、ソフトの部分も少しずつですが着実に進んできてはいる。だけど次々に課題が出てくるので、それにその都度対応していく必要が生じるのです。

厳先生と一緒にやっている、「気仙沼市住みよさ創造機構」は1つのモデルだと思っています。震災の直後から、いろいろな企業等の方々が「お手伝いします」と来てくれたのですが、震災後の3、4年は忙しくて受け付けられなかった。それをしっかりと受け止め、これからの新しい、持続可能なまちづくりに生かしていこうということでこの組織をつくってきました。

今そこに、いろいろな企業や、学者の方などの知見を集めながら、住みよいまちをつくっていこうという流れができています。今まで培ってきた経験、ノウハウ、育成してきた人材などをそこに集めていって、新しいまちづくりができると面白いと思っています。

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