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【特集:NPOの20年】
座談会:今、あらためて問うNPOの役割

2018/11/05

阪神・淡路大震災という契機

宮垣 阪神・淡路大震災のときのことを少しお話しいただけますか。

金子 NPO活動が盛んになるきっかけは、やはり阪神・淡路大震災だったと思います。私もSFCの学生をたくさん連れて現地に行きました。このとき私が、「インターVネット」という仕組みを始めました。ニフティ、IBMなど、様々な企業と交渉して、関心のある人がどこででもネットを見て支援活動ができるようになりました。

宮垣 パソコン通信が全盛でインターネットがまだ普及しておらず、自分の通信しかできなかった時代に、それを全部開放してしまったのですね。

でも、金子さんは阪神・淡路まではボランティアの世界とは縁がなかったと思います。その時代にどこに期待を込め、どこに魅力を感じてこの分野にコミットしていったのでしょう。

金子 そのときはとにかく現地に行こうと思ったんですね。そうしたらゼミの学生があっという間に何十人も集まったんです。私は声を掛けただけです。

深い発想はなく、「とにかく行こうぜ」と言ったらいろいろな人が集まった。企業もすぐに動いてくれた。それで、結構日本も行けるなと感じました。

宮垣 戦略的にというのではなく、自発的にという感じですか。

金子 ええ、全く戦略はなしです。皆、楽しかったんですよ。

山田 僕は95年は、大学3年で三田にいたのですが、そういう動きは全然知りませんでした。

宮垣 私はSFCの大学院1期生で、同期の仲間とともに阪神・淡路にリレーションをつくったりしていたんです。慶應の学生は延べで百何十人行きました。SFCの学生はすぐ呼応しましたが、三田からも「仲間に入れてくれ」という人が何人か来ました。

金子 学生のほうがはるかにフットワークが軽くて、それに引きずられるような形でしたね。われわれが「これこれのアジェンダでやってくれ」ではなく、「とにかく行って手伝おう」みたいな。

宮垣 当時、携帯電話を皆が持っていなかった時代なので、金子さんがNTTへ行って「携帯電話をタダでくれ」と言いまして(笑)。

金子 300台ぐらいもらいました。

宮垣 それを全員に渡して、現地に入って行く。彼らは毎夜、僕らがいたSFCの大学院に、「ここは人が足りない」「ここはものが足りない」と電話をしてくる。それを僕らが活字にして、ホームページにアップする。情報ボランティアのはしりみたいなことをやっていました。それが先ほど言われた「インターVネット」の活用ですね。

金子 学生の力を見直しましたね。

市民活動からの発展

宮垣 萩原さんも長らくこの分野にいろいろな形で関わってこられました。そもそもNPOの分野にはどういう入り方をされたのでしょうか。

萩原 最初は70年代後半から80年代前半の、NPOという言葉がまだ日本に入ってきていない時代ですね。きっかけは、日本で初めて市民の研究活動に助成をするというプログラム、トヨタ財団の「市民研究コンクール 身近な環境をみつめよう」(以下、市民研究コンクール)の助成を受けていた東京都日野市の有機農業グループに修士論文執筆のために参加したことです。おそらく、日本で初めて市民の活動、しかも研究活動にお金を出したプログラムでしょう。

宮垣 それはいつのことですか。

萩原 1979年から1997年まで続きました。1974年に設立されたトヨタ財団が設立5周年を記念して始めたもので、当時トヨタ財団のプログラムオフィサーの山岡義典さんが中心となって創ったプログラムです。

やはり市民の活動になんらかの助成金を出すことが、その活動を活発にし、活動団体の社会的認知にもつながるんですね。私は大学院修了後にアソシエイト・プログラム・オフィサーとして市民研究コンクールに関わっていましたが、助成団体に対して、周囲の方が「あいつら変なことをやっている」という認識から、「何か社会的によいことをやっているらしい」と変化していくのを肌で感じました。

金子 とても早くから活動されていますよね。

萩原 ちょっと早すぎたと言われていましたね(笑)。その後、1980年代後半に「日本ネットワーカーズ会議」が設立され私もメンバーで入っていましたが、その頃に市民団体が法人格を取れる制度を日本に導入するにはどうしたらいいかということが議題になっています。そこで私は「NPOのマネジメントについて」という分科会の座長をしているのです。

山岡さんなどは1980年代からすでに、市民の活動団体が簡単に法人格を取れるようにして基盤をしっかりさせたいと始終語っていました。公益法人制度というのが非常に古くて、社団、財団を含めて主務官庁に縛られていて必ずしも思い通りの活動ができないという思いがあったからです。市民がもっと自由に自分たちの活動を展開すれば、多様な問題意識にもとづいたいろいろな活動が育まれる、そんな市民社会をつくりたいということでした。

当時は、20世紀中に制度ができるのは無理だろうと言われていましたが、それが1995年の阪神・淡路で一気に動いたんです。

宮垣 阪神・淡路のときにいろいろな方が被災地に入りましたが、でも受け皿がないと展開できないわけですよね。

どこが受け皿だったかというと、70年代、80年代から、地域の活動とか福祉の活動をやられている方が上手くネットワークを組んでやっていたのでしょう。だから、ボランティア元年というのは突発的に起こったように思えるのだけど、上手く準備されていたのだなという印象があります。

萩原 阪神・淡路のときは大阪ボランティア協会などの団体の存在は大きかったと思います。例えばせっかく学生さんや市民が入っても、どこに行けばよいのか、何をすればよいのか、どうしていいか分からない。ボランティアコーディネーションが絶対必要でした。そういうことがきっかけになって、皆で法律をつくっていこうという流れになったと思います。

宮垣 中間支援的な組織が必要になる。

萩原 そうです。それが日本NPOセンターの設立にもつながっていくきっかけになったと思います。

宮垣 なるほど。20年を振り返ると言っても、その20年の前史が長い。

萩原 もう1つ、日本NPOセンターをつくるときに山岡さんたちは、NIRA(総合研究開発機構)の研究でアメリカのNPO組織の調査に行かれています。日本が市民社会をきちんとつくっていくためには何が必要なのか、その基盤をしっかりつくるにはどうしたらいいか、寄付税制や法人格について学び、報告書に書いています。

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