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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
座談会:慶應4年の福澤諭吉

2018/05/01

「慶應義塾」に込めた決意

小室 最後に皆さんに一言ずつ、福澤の人生の中で慶應4年をどのようにとらえるのかということをお話しいただけたらと思います。

芳賀 徳川幕府の外国方に雇われていた一介の学者から日本国民に対するオピニオンリーダーに飛躍して展開していく、そのちょうど蝶番(ちょうつがい)の年になるのがこの慶應4年なのでしょう。慶應義塾を芝新銭座に開いていろいろオーソドックスな教育活動をやる。それと重なって大事な時期だったのではないか。

それは幕末までの徳川日本と明治になってからの「万機公論に決すべし」という5箇条の御誓文の日本に応じた新しい福澤の姿だったのでしょう。

先崎 明治5年の『学問のすゝめ』から、普通、人は福澤に入っていくのですが、今日あらためて思ったのは、ある意味で、全ての出発点は慶應4年前後にあるなと感じます。上野で彰義隊が戦っていて、どっちに行くかという雑然とした中で自分の肩書を捨てていくわけですよね。どっちにも付かないというこの決意というのは、本人の中に相当の思いがなければできないことのはずで、やはりそれがあったからこそ、食うためということも含めて啓蒙活動が進んでいく。

やはりこの慶應4年というのは、その後の僕たちが知っている福澤の全ての始まりなんだという感じがあらためてしました。

芳賀 芝新銭座に慶應義塾が移ったということは慶應義塾の歴史にとっても非常に決定的ですよね。鉄砲洲にいるときは間借りで、まだ私塾という感じだった。そのことも大きいね。

西澤 慶應4年4月という時期に、それまでは蘭学塾とか福澤塾と呼ばれていた自分の塾になぜ名前を付けようと考えたのか。

命名について述べた「慶應義塾之記」で、時系列に洋学の歴史を呼び起こし、様々な先人の段階があるからこそ、自分たちの今があるんだと言う。それまでも社会を変えていかなければいけないとか、現在の体制では駄目だということは分かってきていたけれど、自分がそれに対して何ができるかということが明確になっていく。まず学校をつくって、とにかく人材を育成していこうということですね。ここで一大決意をして、355両という大枚を払って土地を買い、名前も慶應義塾にしたと思います。

「仮に」とは書いていますが、慶應という年号を付けたということは、やはり自分たちも1つの時代をつくるんだ、これまで先人たちが積み上げてきたものを自分たちがもう一段高くして、次の時代に渡すのだという決意が表れているのではないかと思います。

小室 確かに、今日うかがったように、慶應4年は、その前後20年の「蝶番」のような年であり、その後の「すべての出発点」であり、新しい方向へ向かう「一大決意」の時だったのですね。

しかも、その時を生徒たちと共にしていた。教師も生徒もなく、どちらも教師でもあるし門人でもあった。

福澤自身が次々と新たな英書を読んで、自分自身が学んで興奮している。そこに生徒たちを巻き込んで、彼らと知の興奮を共有していた。そういう点では非常に幸福な教育が行われた時期でもあったのだと思います。

今日は有り難うございました。

(2018年3月16日収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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