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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
座談会:慶應4年の福澤諭吉

2018/05/01

慶應4年からの展開

小室 慶應4年の福澤は決して立ち止まっていなくて、動いていた人だと思いますが、その慶應4年の福澤を成り立たせていたものをここで整理しますと、1つは西洋体験、もう1つは儒学の教養に基づくもの、もう1つは、おそらく蘭学を通して摂取した西洋自然科学の洗礼を受けている。

そのような慶應4年の福澤が、その後どういうふうに変わっていくのか、あるいは変わらないのか。話をそこらへんに移してみたいと思います。この後『学問のすゝめ』も出てきますし、『文明論之概略』も出てきますし、いろいろ展開してくるわけです。

芳賀 『時事新報』創刊後は政治批評なんかが多くなりますね。

小室 教育者・福澤からジャーナリスト・福澤へという流れもこのあと出てくるのだと思います。

先崎 教育者とジャーナリストのちょうど間くらいが明治の一桁の頃なのでしょう。啓蒙が終わったとはたと気づいて、1年間、引きこもって勉強して『文明論之概略』を書いていくのが明治8年ですが、その後も比較的分厚い、理論的な本を出している。

むしろ明治20年代くらいのほうが、条約の問題などで結構短くてリアルなものを書いていますね。だから、この時期は骨太なものをつくっていく時期なのかなという感じはします。

小室 啓蒙的なものの積み重ねをある程度経たところで、その集大成として理論化したということですね。

先崎 そうですね。読書も洋行の経験も蓄積され、40代に差し掛かる頃に、自分の中で勉強したことをもうちょっと後世の人まで射程に入れるような、いわゆる思想家として立ってくる時期なのかなという感じがします。

小室 ジャーナリズムが最初に出てくるのは、明治一桁の最後のあたりですね。『民間雑誌』とか『家庭叢談』という形で、ジャーナリズムへの模索は始まるのですが、その前に夢中で学んでいる時期があり、そしておそらく『学問のすゝめ』はその中間くらいでしょうね。

福澤も『学問のすゝめ』を書き始める前にウェーランドの『修身論』を読んで、おもしろくて寝食も忘れるくらいだった。

芳賀 『修身論』だけど、あんなもの、そんなにおもしろかったのかね。

小室 たしかに、今われわれが読むと退屈とも言えますが、儒学で育った福澤には、儒学に対する明快なアンチテーゼが書かれており、読んで興奮するような著作だったのではないでしょうか。

『民情一新』という飛躍

先崎 『文明論之概略』が明治8年に出たときは、やはり西洋文明を追いつくべきものとまだ見ていたと思います。しかし、明治12年の『民情一新』を書いたときには、自分がその時代の最先端を読み切ってしまっているという、自負みたいなものがあったように読み取れます。

僕はこの明治の一桁から10年に行くところは、すごく福澤の思想家として重要な時期ではないかと思っていて、日本がある意味で、まだ足りていないから追いつこうという意識から、ちょっと大げさに言うと、ひょっとしたら、世界で最先端の水準に俺の思想は行ってしまっているんじゃないかというくらい、『民情一新』には自負心があるように思うのですね。

英文を通じて同時代のロシア情勢とか、ニヒリストの登場みたいなものを見切っていることに自負心を持っている。下からヨーロッパを仰ぎ見ていた時代から、自分もヨーロッパの最先端の人と同じ目線で見ているんじゃないかというぐらいの変化があったのではないかと思うのです。

『文明論之概略』くらいまではどちらかというと日本の国内に対する目線があるわけですよね。それが、かなり開いた感じになる。

小室 『民情一新』は、知識を持った者のルサンチマンが社会を動かしていくのだという考え方でしょうから、19世紀のあの時期としては、かなり最先端の考え方ですよね。福澤自身『民情一新』には非常に自信を持っている。

先崎 そうですね。1850年代から70年代の20年くらいを、時代として追えているという感覚がすごくある。近代化が進むと騒擾が起きてしまうということを見切ってしまっているので、近代化を推進していた彼自身が明治の10年そこそこで、それが持つ危険性まで見てしまっているというのは相当すごい。

小室 彼は情報の伝達に期待をかけていたんだけれど、その情報の伝達がもう1つの危機をもたらすということですよね。

先崎 そうです。幕末期からの彼は抽象概念で言えば、流動化することをずっと良しとしてきたわけですよね。社会の中で自分自身も動いていく。

芳賀 「メンタルスレーブ」ではなくてね。

先崎 そうです。だから、惑溺をすごく批判する。それが、今度は流動化が逆に問題を引き起こしてしまうということまで気づいてしまった。

僕が驚いたのは、福澤は西南戦争について、簡単に言ってしまうと西郷は情報戦で負けたんだと言っていることです。鹿児島で後に決起する若者たちは新聞だけを読むんですね。そこには大久保利通の政権が東京で非常に華美な服装をしたり、西洋かぶれしているという情報だけが書いてある。それを読んで、やはりあいつらは悪いという怒りを確認する。

福澤は、東京の人なら事実を確認できるけれども、地方の人はそれを想像だけでイメージして、怒りを膨らませてしまうと言っている。そのことが戦争をたきつける原因になってしまったと。これはすごいと思う。

もう1つは戦争が起きてから、官軍は電信を初めて使って薩軍の動きを把握するんですが、そういうことが一切できなかったのが西郷軍で、それで負けたんだと短い文章で書き残しているんです。

どうも『民情一新』あたりで、時代情勢は見るポイントはここにありというのをつかんだようなんですね。ちょっとさかのぼると、西南戦争だってそうだったと。時代を切る何か強烈な武器を握ったという自負心がどうもある。そうやって西郷についても論評していたというのは、相当福澤は鋭いし、しかも自負心があるところが、なかなか福澤らしい感じがします。

小室 慶應4年の、学ぶ福澤の1つの到達点が『文明論之概略』だとすれば、新たな切り口を示したのが『民情一新』ということですね。

西澤 私は教育に関心を持った頃から、ジャーナリズムへの関心も持っていたのではないかと思っています。文久2年にヨーロッパに行ったときに、フランス人のロニにロシア軍が対馬を日本から奪ったと言っているのは本当かと聞かれて、いや、それはただの噂だと言った。すると翌日、ロニが新聞を持ってきて、新聞の記事で全く虚説であることを布告したと言う。その後福澤はロニの新聞仲間に自分を入れてくれないかと頼んでいるんですね。

だから、情報というものが社会のなかで大変重要で、情報によって出来事が左右されていくということは十分理解し、ジャーナリズムというものにも関心を持っていった。ただ、自分の力でできるようになるのが、明治7年の『民間雑誌』(のち『家庭叢談』)までかかったのでしょう。

小室 なるほど。ジャーナリズムへの関心は文久年間からあったけれど、実際に実行に移るのがもっと後だということですね。『民情一新』のライトモチーフにもなっている情報の問題も、文久2年からの関心事だということですね。

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