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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
昭和20年の「ウェーランド」

2018/05/01

  • 都倉 武之(とくら たけゆき)

    慶應義塾福澤研究センター准教授

"危機"に思い出される「ウェーランド」

慶應4年5月15日、福澤諭吉は彰義隊が新政府軍と上野で戦っているさなかにも、時間割通りウェーランドの経済書を講述した。——このエピソードは、二宮金次郎が薪を背負って本を読む姿のように、フランクリンが雷の中で凧を揚げる姿のように、福澤という歴史上の人物の象徴的なシーンとして記憶され、折々に人々によって想起された。近いところでは、2011年3月、あの東日本大震災の際、新年度の授業をいつから開始するかという議論が起こった時に慶應義塾内で甦った。他大学は混乱収束を待って5月から授業を開始すると続々と発表、開始を遅らせることが教育者の道徳性を示すかの如き機運に満ちる中で、義塾では、平常通り新学期を開始すべきとの声も上がった。その際、この故事が持ち出された。筆者はこの立場の主張が、やや皮肉っぽさを帯びつつも「ウェーランド派」と呼ばれていたのを耳にした記憶がある。

この時は原発事故に伴う放射能問題が依然として予断を許さないという不安定性があったが、非常事態といえば、慶應義塾にはたびたびあった。古くは明治10年頃から義塾の入学者が激減し、経営が立ち行かなくなったときがそうである。福澤が明治11年に文部卿に提出した願書には「旧物既に廃して新政未だ行はれず、大学未だ立たず、文部未だ設けず、恰も文物暗黒の其時に当り、独り数十名の学士を集めて安んじて書を読み、弾丸雨中咿唔(いご)の声を絶ざりしものは、唯慶應義塾のみならん」と、弾丸雨の如き中でも読書の声(咿唔の声)が止まなかった学校であることを強調し、維持への援助を求めている。

明治34年2月、福澤の死というのもいわば危機であった。「福澤先生没せらる、慶應義塾も共に葬る可きか。否な、我々は之を葬るに忍びざるなり。……慶應義塾の歴史は甚だ古くして……天下乱れて麻の如く国を挙げて1人の文事を語るものなきの時に際し、独り従容、学を講じ、1日も我文学の命脈を絶たしめざりしは即ち慶應義塾にして……」とあるのは、この月に発足した慶應義塾維持会の設立趣意書である。

戦時の福澤諭吉像

では、危機といえば戦時にはどうであったか。学生に対する徴兵猶予が停止され、いわゆる「学徒出陣」が決まった昭和18年晩秋、12月初めの陸海軍入隊直前まで授業に出席する学生たちの姿を見て、高橋誠一郎は『三田新聞』に書いた。

慶應義塾の学徒は今、故先生の精神を承け、国難を払ひ、東亜共栄圏確立の理想実現の為めに雄々しくも立たんとして、尚ほ且つ冷静なる態度を失はず、講義の場を去らうとしない。斯くの如きものは実に、明治元年5月、官軍の砲撃を受けて上野の堂塔皆炎上するの日、砲声を聴き焔煙を見ながら静かに講席を終った慶應義塾魂の76年後の再現とも称す可きものであらう。(『三田新聞』、昭和18年11月10日付)

しかし、戦時の福澤は、戦時のミッションスクールにおける信仰の如く、声を潜めて語らねばならない存在になっていた。それを象徴するのが、徳富蘇峰による福澤批判であろう。大日本言論報国会会長だった蘇峰は、その機関誌で回顧談を連載する中で、激しく福澤を、そして暗に慶應義塾の存在を非難してこう書いた。

兎に角福澤先生は薩長政府に対して一番大いなる存在であった。この点は実に先生は偉いと思ふが、然し西洋のことを無茶苦茶に輸入する点に於ては、伊藤や陸奥なんかの比ぢゃない。より以上のものである。……日本の従来の良風美俗をして地を払ふに至らしめたことについては福澤先生はまことに重大なる責任を持って居られることと思ふ。……弟子の方は先生より相当下ったところまで落ちて行ったんぢゃないかと思ふ。この功利主義といふものが非常に盛んになった。さうして福澤先生の最後の決着は独立自尊といふことになってしまった。独立といふことは要するに個人主義を異った言葉で説明したものである。……例へば国家の大事でも自分に於ては何等頓着ない。今日の戦さでも、誰が戦さをして居るか。まるで外の人が戦さをして居るといふやうなわけであって、……独立自尊でやって行く以上は、愛国といふことなどとは縁が遠くならざるを得ないやうな結果になって来た。(「蘇翁漫談」『言論報国』第2巻第3号)

これが昭和19年3月である。同年9月にはこんなことを書く本が出ている。

この年〔慶應4年〕5月、上野に彰義隊討伐の戦争が起った。芝新銭座の慶應義塾に於ては、戦争を後目にヱーランドの経済学が講ぜられた。砲声を聞きながら講義を進める福澤は一種崇高と思はれるほどの誇りと歓びを感じたらしい。然しながらそれは所詮、国の大事をよそに見る血の気のない軽薄な開化論者の態度でしかあり得なかった。福澤にとっては大義明(ママ)分といふことよりも利殖の道の方が大切であった。国の為に一命を擲(なげう)つよりも商売の為に熱中することの方がより価値ありと考へられたのである。増田先生が福澤を刺さんとして起たざるを得なかった所以である。(竹田数馬『増田宗太郎歌集』、昭和19年)

「増田先生」は福澤の又従兄弟の国学者・増田宗太郎で、維新前後に福澤を暗殺しようとしたことで知られる人物である。ただし後に義塾に入学し、さらには西南戦争で西郷に従って兵を挙げ戦死する激情の人である。

その後キャンパスに残っていた学生・生徒も勤労動員で全国へ散り散りとなり、幼稚舎生も集団疎開した。筆者はこの5年ほど、戦争期の義塾の調査を続けているが、ふと1月10日の福澤先生誕生記念会はこの頃でもずっと開かれていたのであろうかと気になり調べたことがある。昭和19年まで記録は見つかったが、20年は見つからなかった。時の塾長小泉信三の全集年譜を見ても昭和19年12月9日から20年1月23日まで記述が飛んでいる。やはり無かったのであろうか。

「福澤諭吉ウェーランド講述の図」安田靫彦画 (慶應義塾福澤研究センター蔵)
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