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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
昭和20年の「ウェーランド」

2018/05/01

「悲壮な式典」

その後『三田評論』を繰っているときに、昆野和七「対照的な2つの福澤先生誕生記念会」という文章(昭和33年5月号)に次の記述を見いだした。

慶應義塾の式典記録の中には、昭和20年1月10日の福澤先生誕生記念会の行事については一行も書かれていない。前年の11月3日の明治節と、この年の2月3日の先生命日の墓参のことは、記録があるが、1月10日の事は欠けているので、後で塾の歴史をしらべる人が出てきて、記録がないからという理由で、この記念会は戦時中1回だけ中止したのではないかと断定するおそれがある。1回中止どころか、実は悲壮な式典が行われたのである。

昆野によると、昭和20年は元旦午前零時から東京で空襲があり、それから連日敵機が来襲した。教職員も塾生も動員で三田にはいない。

こういう時に1月10日の記念会の日を迎えた。時の塾長小泉信三博士は「集会の人数を顧慮する必要はない」と、例年通りに、定刻に会を催した。その日、会する者十二三名……

昆野の記憶はなかなか鮮明で詳細である。

小泉塾長の講演は荘重であった。「慶応4年5月15日、上野戦争の砲声をききながら、残り少くなった塾生を前にして、福澤先生は予定の講義をつづけた。私はいま、敵機が来襲するかも知れないこの時に、福澤先生を語る」と前置きして、ナポレオン軍に占領されたドイツでは、軍靴の響きをききながら、ドイツ国民に告ぐと題する講演をした、哲学者フィヒテの故事を引用して、愛国者福澤諭吉を論じた。そして小泉塾長はこう結んだ。「吾々はいま、十数名の志しを同じくする友人と共に、ここに記念会を催した。空襲中においても尚、相会して先生の記念会を中断しなかったことは、吾々の誇りと致します。後年この事は必ず語り草となるでありましょう」。

昆野は当時塾監局総務課長だった富田正文が、「記念会のあとの茶菓がなくて困っていたところ、日吉の学生農園からサツマ芋が届いたので、それをふかして一同食べたと語っている」との逸話も記録している。当の富田は、別の機会にこの日を回顧して、「会場を暖める燃料も乏しく、来会者も困難を排して集まった十数名の小人数で、いずれも外套にくるまり堅く身を引きしめて寒さと戦っている」、その人々を前に、小泉塾長が、例の演説をしたと記している(「慶應義塾歳時記(1月)」『三田評論』昭和38年1月号)。

昭和20年。慶應義塾にとっては、福澤を偲ぶために集うというだけのことが、「ウェーランド」の逸話に重なる行為となっていたのである。

声を大にせず、しかし忘れず

今回、前記の昆野回想を紹介するつもりで稿を起こしたが、改めて福澤研究センターの資料を紐解いてみることとした。かつて筆者が開き、おそらく昆野も調べたはずの「儀式関係綴」という数冊続く厚い簿冊にたどり着く前に、「年中行事書類」という、やはり厚い文書が目に入った。そこには、昭和初期からの塾長名の新年の挨拶状、定例行事の案内状等の文案や送付先の決裁文書が綴られているが、時代が下って戦中になると、紙質の劣化と共に記録は重苦しさを漂わせる。気づけば表題は「十九年十一月三十日爆撃見舞先」などとなり、さらに繰れば「昭和拾九年十二月拾九日」の朱印が捺された「一月一日及一月十日行事ノ件」の決裁文書が現れた。右端の「塾長」欄には「小泉」の鉛筆サイン。「理事」欄にはやはり鉛筆の「槇」(智雄)と西村富三郎と思われる赤ペンの丸印。「主任」欄は「山本」(敏夫:後の文学部教授)の朱印と、特徴ある「富」のペン書き(富田正文)があった。そしてそこから数枚にわたって、昭和20年1月の行事予定の書類が綴られていた。「学生宛掲示」と題されたガリ版刷りを書き起こせば次の通りである。

  来年一月例年通リ三田本塾ニ於テ左記ノ通リ新年拝賀式及福澤先生誕生記念会挙行可致ニ付
 出席スベシ
 昭和十九年十二月  慶應義塾  
   記 
  新年拝賀式 
 一、日時 元旦午前九時三十分 
 一、会場 三田本塾二十三番教室 
  福澤先生記念会 
 一、日時 一月十日(水)午後一時三十分 
 一、会場 二十二番教室 
 一、記念講演有リ 
   注意 当日行事開始二時間前ニ警報解除セラレザル場合ハ中止トス

このガリ版刷りは各学部や諸学校に送られたものらしく、送付状の案文も綴られている。記録はあったのである。そして、改めて驚かされるのは、これだけ周到に告知されながら、来場者は「十二三名」だったということである。この後5月には、三田も戦災により多くの建物を失い、小泉塾長も負傷する。ただ、「年中行事書類」はそれを何ら語ることなく、何事もなかったように昭和20年12月26日付で、塾関係者に送付された「来る1月10日」の福澤先生誕生記念会の招待状案文が続いていた。小泉塾長名義だが、筆跡は特徴ある富田正文の字であった。

「ウェーランド」の故事は、慶應義塾が存在し続ける意味を見つめ直す契機として、危機のたびに想い起こされてきたのである。声を大にせず、しかし忘れず。「ウェーランド」はそのように語られるのが良い。

富田正文の筆による昭和20年12月26日付、招待状案文

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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