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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
座談会:慶應4年の福澤諭吉

2018/05/01

  • 芳賀 徹(はが とおる)

    東京大学名誉教授

    1960年東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了。東京大学教養学部専任講師、助教授を経て75年同教授。国際日本文化研究センター教授、京都造形芸術大学学長等を歴任。専門は比較文学、近代日本比較文化史。著書に『文明としての徳川日本』『大君の使節』等。

  • 先崎 彰容(せんざき あきなか)

    日本大学危機管理学部教授

    東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院日本思想史博士課程単位取得修了。フランス社会科学高等研究院に留学。2016年より現職。専門は日本思想史。著書に『個人主義から〈自分らしさ〉へ 福沢諭吉・高山樗牛・和辻哲郎の「近代」体験』『未完の西郷隆盛』等。

  • 西澤 直子(にしざわ なおこ)

    慶應義塾福澤研究センター教授

    塾員(昭58文、61文修)。1986年より福澤研究センターに勤務、2005年同准教授。10年より現職。専門は福澤諭吉の家族観・女性観を中心とする近代日本女性史・家族史。著書に『福澤諭吉と女性』『福澤諭吉とフリーラブ』等。

  • 小室 正紀(司会)(こむろ まさみち)

    慶應義塾大学名誉教授

    塾員(昭48経、53経博)。助手、助教授を経て1996年~2015年慶應義塾大学経済学部教授。その間、慶應義塾福澤研究センター所長、経済学部長を歴任。専門は日本経済思想史。著書に『草莽の経済思想』『近代日本と福澤諭吉』(編著)等。

欧米体験が与えた影響

小室 今年、2018年は、1868年すなわち慶應4年(9月に改元して明治元年)から数えて150年になります。そこで今日は慶應4年の福澤諭吉について皆さんにお話いただきたいと思っています。といっても、慶應4年だけではなく、その前後10年ぐらいずつに目を配ることによって、慶應4年という時点における福澤諭吉像を浮かび上がらせられればと考えております。

慶應4年の前の10年は、福澤が一生の課題を見いだして行く非常に重要な10年だったと思いますし、その後の10年は、福澤の思想の基礎が確立する10年と言ってもよいと思います。

また、言うまでもなく慶應4年は、徳川幕府が倒れ、明治政府が成立する日本の激変期ですが、この年は福澤にとっても大きな変化の時期でした。新銭座に福澤の塾が移り慶應義塾と名前が付けられて、本格的な教育が軌道に乗るのがこの年です。

芳賀 慶應4年というのは、福澤の生涯の満66年の生涯の半分をちょうど超えたところですね。まさに「一身にして二生を経(ふ)る」ちょうどその分かれ目のところです。

前の話からすると、1862(文久2)年に遣欧使節団の一員としてパリに行ったときに、ナダールが撮った福澤の写真は本当に眉目秀麗。これを見ると、諭吉は頭の中まで眉目秀麗だったのだと思います。福澤はまだ満28歳ですが、意気軒高で、初めてヨーロッパにやってきて、ヨーロッパの人間もそんなにびくびくするような相手ではないじゃないかと分かった。黒い羽織にシャキッと折り目のついた袴を穿いて、頭には菅笠をかぶり白い紐をあご先に結び、腰に両刀を挟んで、松木弘安(まつきこうあん)とか箕作秋坪(みつくりしゅうへい)らと並んでパリの街を歩いていく。

これから福澤が本当に飛躍していく、ちょうどカタパルトの上に立ったような時期ですね。知的にも非常に充実していて、好奇心旺盛で、何を見ても聞いても、とにかく自分の身に付けてしまう。

このときの福澤の「西航手帳」を見ても、右から左から、英語もフランス語もオランダ語、漢文も、右向き、左向き、上から下へ、下から上へと自由自在に書き込んで、実に俊敏に頭を働かせながら自分の関心のあるものをびっしりとつかまえていっている。しかも、ノートに取っただけではなく、それを自分でちゃんと意味付けをしていく。

小室 そのような欧米体験がその後の、特に慶應4年頃の福澤に与えた影響はどのようにお考えですか。

芳賀 それは大きいでしょうね。20代後半の福澤にとっては、2年前の咸臨丸でのアメリカ往復とならんで大変な勉強ですね。いっぺんに百科事典を自分の頭の中に抱え込んだようなもので、しかもどこのページに何の項目があって、それを引くとこう書いてあるということまでみんな覚えている。

『福翁自伝』にも書いていますが、福澤の行動のいわばキーワードは「颯々(さっさ)」です。その颯々というのは、インテリジェントであることの表現ですね。こだわってもしょうがないことにはこだわらない。もっと大事なことにすぐ目を向ける。

小室 生涯にわたって、「颯々と」は福澤の好きな言葉ですね。

芳賀 あれは福澤の一生涯のキーワードでしょう。格好いいじゃないですか。

小室 福澤は幕末に3回、海外体験をして、最後の3回目が慶應4年の前年ですから、慶應4年時点の福澤は、海外体験で頭の中はかなり大きな影響を受けていた時期でしょうね。

芳賀 幕末のうちに3回欧米に行った人は福澤だけですね。2回行ったのは福地源一郎とか田辺太一、小野友五郎などいますけど。稀有なケースです。しかも福澤はたまたま選ばれて行くのではなく、自分でそういう機会をつかまえて自分の運命を切り開いていく。年中知的ドライブがかかっている。

実体験としての「独立」

小室 慶應4年は、先崎さんのご本で取り上げた西郷隆盛はまさに戊辰戦争を戦っている時期ですが、福澤諭吉に関してはどういうところに注目されますか。

先崎 福澤は慶應4年、幕府からの奉書が到来したとき、病気と言って断り、幕臣であることをやめてしまう。同時にその直後、新政府からの上洛命令も病気を理由に辞退しています。結局、このとき福澤は家禄なども全部辞退して、平民になることを選んだわけですね。一般の武士の秩禄処分が明治9年なので、かなり前にそういうことを自分の意思でやり、同時に政府からの出仕も固辞した。そして翌年、「福澤屋諭吉」という屋号で出版事業の自営化に乗り出す。

これはどういうことかというと、要するに自分が本当に何者でもない者になったということ。福澤にとって重要なことは、政治もそうですが、自分が食べていくという経済の独立をすごく重視した人で、出版事業などで食べていこうという意思が実際の行動から見て取れるわけです。

僕たちは『学問のすゝめ』の「一身独立して一国独立す」というキーワードを読んで福澤の「独立」についての考えを理解するのだけれど、実際に彼が本当にやっている「独立」の生々しさ、実体験がこの慶應4年にあるということは大きいのかなという感じがします。福澤のこの時期の具体的な行動が言語化されて『学問のすゝめ』や『文明論之概略』になっていると考えると迫力がありますよね。

それから、彰義隊が上野の戦争をしているときに講義を続けたという有名な話がありますが、そこで注目したいのは、結局、官軍だろうと、反政府軍だろうと、政治的な闘争を行っているときに、あえてそこに直接介入しないで学問をするという、第3の立場が大事だということです。

今みたいな時代でも、政治的なことで右や左でワッと行動しがちなのに、冷静に学問をしていた態度を、この近代化の最初期に見せつけたというのは、現代においてもとても大事なことなのではないかと思っています。

小室 福澤は、常に現実政治には一歩距離を置き、他に自分で燃えるものを持っているんですね。この時期はおそらく学問と教育、それから新しい生き方に燃えているときですから、むしろ戦争や政治闘争などやってられないと思っていた。

先崎 そういう感じでしょうね。「ほかにやることがある」という強い意思も見えますね。

芳賀 今から見ても、上野の彰義隊とか戊辰戦争とかより、福澤1人で塾生相手に勉強していたことのほうが日本の歴史全体を見ると大事だったんですよ。

小室 慶應義塾のルーツは安政5(1858)年に始まる福澤の塾だと言われていますが、福澤がそこでの教育に本格的に取り組むのは、遣欧使節から帰国後の文久3(1863)年頃からですね。

そのときすごいと思うのは、自分1人で教える限界を見通して、今後、教育を担う者を教育しようとしたことです。そのため中津から小幡篤次郎ら6人の俊秀を連れてきて教育しますね。そのような福澤の新方針が、軌道に乗ってくるのが慶應4年なのでしょうから、ものすごく燃えていたときだと思います。

慶應4年頃の福澤諭吉(撮影者 不詳、 慶應義塾福澤研究センター蔵)
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