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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
座談会:慶應4年の福澤諭吉

2018/05/01

西郷への視線

芳賀 西郷はどれくらい西洋のことを勉強していたの?

先崎 『文明論之概略』は弟子筋に読むよう薦めていました。他にはナポレオンに関する訳したものとか、そういう政治的なものが多いですね。

小室 西郷は明治10年に亡くなりますから、『文明論之概略』が出てからすぐ読んだということですね。

先崎 そうですね。お互いに面識はなかったんですけれども、相当評価していたようです。

思想史における幕末はいつからかというと、寛政異学の禁が行われた1790年くらいから考えるべきだという説がある。なぜかというと、それによって、武士階級ではない人たちも学問をすることによって、藩の政治に入っていくという出世の可能性が出てきた。また何より藩校が増え、下級の武士層にも学問に触れるチャンスが増えた。

その中で西郷隆盛みたいな下級の武士も、小さい頃から教育を受ける。

社会は次第に激動期をむかえ、流動性が増す。流動性は下級の者にも社会参加のチャンスを与えるわけで、つまり、一見して封建的な思想を体に染み込ませた人物が、結果的に社会を変え、近代化を推し進める力になった。福澤は、人よりも儒学においては精通していた人間なので、だからこそ『文明論之概略』などで儒教教育を受けた旧来型の知識人の考えをひっくり返せるという自負心があったのでしょう。そういう意味においては、福澤もやはり幕末の思想家のうちの1人ではあるのだと思います。

小室 おっしゃるように、福澤は自分の漢学にかなり自信があって、だからこそ儒教の批判者として強力だと考えていた。『福翁自伝』では、漢学にとって自分は「獅子身中の虫」だと言っていますね。

芳賀 西周もさんざん儒学をやってきたのに、それをポイッと捨てて洋学に転向していく。福澤が中津をけとばして長崎に行ったのと同じ年、西周は江戸の津和野藩邸をある夜明け方に抜け出して、漢詩を朗々と歌いながら、手塚律蔵の蘭学塾に向かっていった。神田孝平もそうでしょう。それから、堀田正睦(ほったまさよし)の佐倉藩に仕えていた西村茂樹も同じ頃、海外留学を願い出た。あの展開は大きいね。

それを司馬遼太郎はペリーのショックウェーブと言っている。東でも西でも20歳前後の若者たちが一斉に儒学を捨てて洋学に転向していくわけです。やはり天から与えられた使命感とか、国とか社会に対する武士としての責任感があったからこそ、幕末の米欧列強への対応もできたし、明治の大変革もできたと思う。それを支えるものとして、天とか義塾の義というものがあった。

小室 ある意味では旧幕時代の教育を受けた士族には、そういうモラルの面は実態としてすでにあった。だから福澤も、これからは、むしろ客観的にものを見る力や計測できる力のほうが必要だと考えたとも言えますね。

芳賀 あれもズバリ当たっているね。例えば、幕末に高橋由一という油絵画家が出てくる。衣服の織り具合、その質感、それが光を反射するところまでじっと見て、それを再現しようとする。オブザベーション(観察)、それからその結果に立って、リーズニング(推理)をやる。それからシンセサイズ(総合)する。それが福澤の『学問のすゝめ』の中の一番の大事な問題でしょう。

抽象的なこと、自分の内心にあるような道徳とか天とかへの感覚や責任感は自ずから生徒たちにも伝わるので、実際に教えるべきは外国語であり、オブザベーションとリーズニング、シンセシスの能力だ。非常にプラグマティックでいいじゃないですか。

小室 でも、その福澤が西郷に惹かれているというのは非常におもしろいと思います。

先崎 『丁丑公論』で言っているのは、政府に対してちゃんと批判するような目線がなければ駄目だということで、西郷には征韓論以来、すごくそれを見ているんですよね。

また、福澤は西郷が亡くなった後には、板垣退助を評価していきます。この時期の福澤を見ていておもしろいのは、「封建」という言葉をめぐる思想史です。普通、私たちは「封建」の反対概念は「近代」だと思っている。時間の前後関係だと思っている。しかし福澤の時代には、「封建」の反対概念は「郡県」なのです。もちろん前者は幕藩体制の、後者は明治新政府の政治体制を象徴している。つまり、地方自治か中央集権かという制度問題であり、時間軸の概念ではないんですね。

そして西南戦争の際、福澤は武力とは違う形で、おそらく分権論とか地方自治みたいなことを一生懸命、手探りしている。不平士族たちを地方自治の訓練をさせることで、なんとかガス抜きをするという方法を模索する。福澤自体が、「封建」と「郡県」の間でゆらぎながら、思想を展開している。

小室 1つのモデルみたいなものとして、武力は使わない西郷みたいなものがあるということですね。

啓蒙家としての福澤

芳賀 慶應4年頃に福澤は本当の啓蒙書を出していますね。『西洋旅案内』とか『訓蒙窮理図解』。私、ああいう文章も大好きなんですよ。『西洋旅案内』なんか、パナマは大蛇とかライオンとかいるから気を付けろとか、変なものを冷たいからといってガブガブ飲むとよくないとか、そんなことまで書いてある。非常に具体的で、生き生きと自分の体験をそのまま書いていて見事なものだと思う。日本人が書いた西洋への直接の旅行案内はあれが最初じゃないですか。

『訓蒙窮理図解』もチェンバースか何かを下敷きにしていても、落語家や講談師のように話がうまい。10歳の子どもでも、おもしろがるように書いている。本当に身近なことを取り上げて、まさにオブザベーションとリーズニングを説いていく。理科的知恵を与えるのに、目の前の卑近な例を挙げて説いていくそのうまさ。頼山陽なんか嫌いなのは、もう当然だと思うね。あれを読んで僕は感心した。これをもっと高く評価したい。

小室 『訓蒙窮理図解』というのは、福澤自身も重要だと思っていたようです。『福澤全集緒言』で、広く民間の老若が物理学に接することが、西洋文明を受け入れる鍵だと考えて書いたと述べていますね。

西澤 慶應2年に中津藩の重臣にあてた手紙に、「或云(わくうん)随筆」というものを添えて、その中で福澤は窮理学が非常に重要で、勉強しなければいけないということや、日本人にもヨーロッパを旅させれば日本というものを意識するし、日本に対する誇りや自負心が生まれると書いています。この随筆の結実が、『西洋旅案内』であり、『訓蒙窮理図解』なのだろうと思います。

芳賀 『西洋旅案内』で感心したのは、その第一行に、孔子は「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」と宣ったが、たまにはこちらからも出かけてみようじゃないかと言っていること。こんなこと孔子から2500年たつのに、これまで誰も言わなかった。福澤はまさにコペルニクス的転回をやった。

洋学一筋で、徳川の18世紀から明治への思想の脈略を完全に把握してみせた明治9年の「故大槻磐水先生50回追遠の文」も見事なものだ。これを読むだけで福澤は西郷以上だなと思う。志があり、文明の歴史というものへの理解が深い。洞察力がある。これはもう福澤諭吉の全文章の中の最高峰だね。

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