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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
座談会:慶應4年の福澤諭吉

2018/05/01

家族から社会を変える

小室 『民情一新』の先進性が指摘されましたが、福澤の先進性というと、やはり女性の問題があります。慶應4年段階ではどうだったのでしょうか。

西澤 文久2年に西洋を見てきたとき「西航手帳」に、例えばイギリスは景気が悪くなると売春婦がすごく増える、その売春婦にどういう対策をとったらいいと言われているかを書いていたり、工場に女性がたくさん働いていることも書いているので、自分の周りの武家の女性たちの問題も考えてはいたと思います。

ただ、福澤自身は江戸に出てきた頃から、自分は女性論に関心があったと言っていますが、ちょっと話を盛るところがあるので(笑)。本当に江戸に出てきた二十何歳かで、女性論に関心を持っていたのかなとは思うのです。でも、自分も結婚して子どもが生まれるようになってからは、社会を変えていくには家族のあり方を変えなければいけないとは考えていたでしょう。だから『西洋事情外編』が「人間」から始まり、次が「家族」なのではないかとは思います。

なぜ当時の人々に身近ではない家族像を描いたのかと言えば、社会を変えるために、まずは西洋には日本とは違う家族像があるということを紹介したかったのであろうと思います。

先崎 日本が文明の国家になっていくには、まさに手近なところで、西洋の家族のイメージをバーンとぶつけて啓蒙するということでしょうか。さらに根本には一身独立ということがあったはずで、人が嬉々として活動的に物事を見たり、考えたりするのに、男女の差や年齢は関係なく、社会的なことに関心をもったり、そろばんをやり始めたりすることから始まると考えていたということでしょうか。

西澤 『西洋事情外編』を出したときに、すでに新たな社会体制、国家体制を福澤は目指していたのかといえば、今はまだ私は確信が持てないのです。

例えば福澤英之助にあてた手紙を読んでいくと、日本の国で生まれたからには、その体制を守っていかなければいけないというようなことを言っています。また、「長州再征に関する建白書」(慶應2年)も長州藩が直接外国と接触するのは、国の外交権を無視しているわけだから、幕府が主権者であることをはっきりさせる建白書のように読めると思っています。

ラディカリズムと現実主義

芳賀 僕は福澤の徳川文明に対する見方は非常におもしろいと思います。『学問のすゝめ』でも、『文明論之概略』『西洋事情』にしても、非常にうまい文章でしょう。人の感情を逆撫でさせておいて、「楠公権助論」のようなことをやる。気難しい顔をして偉そうにしている学者は、自分の玄関に死骸をぶら下げているようなものだとか、ああいう言い方をして、人の常識を逆撫でし、わざとイライラさせてやがてわが陣営に誘い込む。

あれは江戸文学、平賀源内の戯作のやり方なんです。『文明論之概略』の中でも、福澤は江戸の戯作者は、十返舎一九にしても平賀源内にしても大田南畝にしても、封建制の中で自分の意見、思想を自由に伸ばすことができずに、憤慨しながらつぶやいていたんだと言う。

そう言いながらも、江戸のもの、徳川のものからたっぷり学んでいるんです。中津藩なんか、あんなケチな息苦しい世界と言いながら、しかし、最後は徳川封建社会の中にあった知足安分、「足るを知り分に安んず」が民衆にとって儒教が教えていた一番大事な知恵だと、福澤もだんだん理解していくんですね。

『文明論之概略』では、知足安分というのは、もうメンタルスレーブの典型的なものの考え方だと真っ向からやっつけているけど、だんだんそれが大事だと悟って、近代化、文明開化、西洋化の一本筋で行くのではなく広がりが出てくる。

人間としての分を忘れ、足るを忘れることが近代化だった。しょっちゅう忙しくして、上へ上へと望みながら動いていくのが、今日なおわれわれをせき立てるモダーン・マインド、近代の精神というものでしょう。福澤も前半はそれでひたすらやってきた。

しかし、やがて人間はもうちょっと複雑だ、江戸の人間は大変な知恵をもっていた、道徳と自然科学を引き離すことをしなかった、ああいうところを見直すべきだと悟ってくる。そこまで含めて福澤というのは、やっぱり度量が大きいのではないか。

小室 「知足安分」ということで言うならば、おそらく福澤は、原理的には非常にラディカルなものを内に秘めていながら、人に何か薦めるときにはあまり非現実的なことを言って、その人が不幸になってしまうようなことは避けるんです。だから学生たちにも学を極めろではなく、一応学業を終えて仕事があったらさっさと就け、と現実的なアドバイスをする。「知足安分」のすすめとも言えます。

典型的には女性論で、原理的には男女関係の理想はフリーラブ(自由恋愛)だと考えていますが、現実にそんなことをやったら社会的に破綻してしまうし、不幸になるだけだと言う。そういう原理的なラディカリズムと、現実主義的な人々への教訓を使い分けますね。

芳賀 使い分けるというか、彼の中では必ずしも矛盾していないんだな。

先崎 1つ大変おもしろいなと思ったのは、福澤諭吉が新政府の人たちと『時事新報』をつくるにあたって話したときに、思っていたよりも彼はラディカルではなくて、話の分かるやつだみたいなことを新政府側の人間が言っているのです。これをかなりの前の研究だと、福澤が保守化したとか、官の側に近づいたと言われているのですが、僕はそれは見方がおかしいと思う。

彼は『民情一新』の中でも、文明というのは大海のようなもので、小さな川の流れを全部吸収しても、自分の本質は変わらない。だから貴族制であっても、共和制であっても何でも入れることこそが文明だと言っている。この大きさというのが福澤の人間性の本質みたいなものを表している気がして、かなり自由闊達なエネルギッシュな男だったと思うのです。

だから保守化したのでもなければ、官とくっ付いたのでもない。そこで福澤が言っているのは、日本という国を植民地にされないようにうまく回していくということが一番大事ということで、そうすると、5年前と違うことを言っているように見えても、その時々において国がうまく立ち上がっていくことに必要でないものであれば叩くという態度は、常に一貫しているんです。

「皇室にずっとこだわっているのはよくない」と書いているときと、「やはり皇室は精神の安定に必要だ」というのは、言葉だけ見れば違うけれど、西南戦争などで混乱した日本が乗っ取られないことを目指してやっているという意味では一貫している。

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