三田評論ONLINE

【特集:慶應4年──義塾命名150年】
座談会:慶應4年の福澤諭吉

2018/05/01

慶應義塾の命名と「官」への対抗心

芳賀 慶應4年に新銭座に来て、慶應義塾と命名し、中津藩から独立したということだけど、慶應が大赤字になったということはあるんですか。

小室 慶應は何回も経営危機がありましたが、最初の経営難は明治10年頃からでした。

当時、学生は士族が多かったのですが、秩禄処分で士族が窮乏化したことや、政府の官学優遇政策などで入学者が減少し授業料収入は減り、しかも物価高騰で経費が増大しました。また、西南戦争のときに九州出身士族などの退学者が増えたことも影響しています。

先崎 この時期ではないのですが、官の力が強くなってくると、私学としての慶應に来ることと、新政府の中でいいポストを得られるというようなことが齟齬を来してきて学生が減るということはあったんじゃないかと。同志社とかはそれで大変な目に遭っているはずなんですよね。

西澤 明治12年以降に徴兵に関する特典が官学のみになってしまい、その影響で学生の数が減っていくということがあります。あるいは明治14年くらいから景気が悪くなると、中心だった士族たちは、なかなか勉学が続けられなくなります。

小室 おそらく官学との競合が本格的になるのは明治10年代でしょう。明治一桁の間は官学のほうの整備がそれほど行われていないので、慶應が先導的な存在意義をアピールできる状況であったのだと思います。

芳賀 芝新銭座に移ってきたときに、「慶應義塾之記」などを著してどういう学校であるかを示していますね。あの中で洋学を中心とする学校であるとはっきり書いている。官との対決とまでは言わなくても、この頃から官や国からの一身独立ということをかなり強く意識しているんじゃないか。官とは違うんだ、慶應義塾はもっと自由にやるんだという考え方があるように読みました。

このときは官学とはまだ言っていなくても大学南校とか兵学寮(後の陸軍士官学校、明治2年大阪に設置)とか、次々にできたわけでしょう。幕末の幕府も、明治の新政府も官学の学校をものすごい勢いでつくる。その中に慶應がいて国、中央政府から独立して、自分の考え方で自由に教えることを目指す。そういう志はかなり早くからあったんじゃないか。

西澤 「慶應義塾之記」の中では、共立学校を例にとって慶應義塾をつくると言っています。また、教師がいて教わる生徒がいるという関係ではなく、ともに学んでいく社中、仲間という意識が非常に強かったようで、それが義塾という名称に現れていると考えています。

私は、福澤の中で官との対抗意識が強くなるのは、もうちょっと後、明治14、5年くらいに官の教育が新しい儒教主義を打ち出してきてからなのではないかと思っています。それまでは福澤の中では官はあまり眼中になく、自分たちで切磋琢磨しながら、義塾を充実させていきたいと考えていたのではないでしょうか。

芳賀 でも、福澤は幕末に幕府の外国方で翻訳局勤務になると、ああいうところでさえ役人のぐずぐずした感じのがいくらでもいたわけで、すでにうんざりしていたんじゃないかな。あんなのに洋学教育を牛耳られてはたまらないと。

小室 たしかに役人に対する否定的な見方は、藩や幕府のときからありましたね。ただ、官学との対抗という点では、まだ明治一桁の間は楽観していたと思います。本当に危機感を持ちだすのは、明治14、5年頃以降に公教育の整備とともに、西澤さんのご指摘のように、官が儒教主義教育を復活してくる時期だといえるのではないでしょうか。

儒教的な考え方をめぐって

先崎 今の話を、儒教をめぐってどう考えたのかという点でみてみると、『文明論之概略』の9章に頼山陽が出てきますが、頼山陽が嫌いなんですよね。そこに福澤の儒教に対するあるイメージがある。簡単に言うと、大義名分論、要するに、身分社会が固定しているというイメージの典型として頼山陽を出してくるわけですね。

ところが、福澤は西郷隆盛のことを非常に高く評価している。明治10年に『丁丑公論』を書いたときのキーワードは「抵抗の精神」ですが、西郷隆盛の思想を貫いていたのは大義名分論よりも、儒教における「天」という概念です。儒教の天、天道、天命なんですね。それを非常に強く意識した人たちが自分の社会的な宿命、明治維新を完遂するんだという強い意思を生み出してきた。

丸山眞男などは儒教におけるそういう面も見なければ駄目なんだと言っている。そうすると、福澤の儒教のとらえ方というのは、『文明論之概略』だけでいいのか、もうちょっと細かいところまで読むと、おもしろいことを言ったのではないかという気もします。

小室 丸山先生は、福澤は、時代の状況の中で、何を論破しなければならないかを考えて主張を展開する思想家だとおっしゃってますね。

おそらく福澤は、実は儒教を評価している面もあるのですが、今はこの儒教主義を否定しなくてはならないと判断すると徹底的に論破する。そういう思想家なのではないかという気はします。

芳賀 『学問のすゝめ』なんかでは、儒者というと、歩く辞書だ、空っぽだとくそみそでしょう。でも、儒教でも為政者は一種の知的エリートとして民衆の生活に対して責任を持たねばならぬ。これが武士の根本の倫理で、それは福澤もしっかりと身に付けている。

18世紀末から19世紀を通して、日本の優れた武士たちは、渡辺崋山でも阿部正弘でも自分が責任を持たされている社会に対する使命感は一貫してゆるぎない。そのための自己犠牲もいとわない。あれがあったから近代の日本は持ったんだと思う。

先崎 『文明論之概略』自体が、儒学者向けに書いたと書かれていますね。たぶん儒学者は現代的に言うと、知識人で中間層のある種の典型だから、西洋文明をきちんと理解させてしまえば、コロッとひっくり返って重要な近代化を進めるための力になるのだろうと考えたのではないかと思います。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事