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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
塾歌に歌われた慶應4年

2018/05/01

  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

今年は、明治150年ということもあって、明治元年への関心も高まっている。明治元年の1868年という年は、慶應義塾の歩みの中で重要な慶應4年でもあり、その慶應4年の2つのエピソードが塾歌の1番と2番に歌われている。

「天にあふるる文明の」ではじまる旧塾歌に対して、新塾歌をとの議が起こったのは大正15(1926)年。以来、塾生への懸賞募集、与謝野寛への依頼、折口信夫への依頼がなされて来たが、いずれも満足の行く歌詞が得られないでいた。そこで、昭和8(1933)年より塾長の任に就いた小泉信三の信頼もあって、昭和11年、新たに依頼されたのが富田正文である。富田は、石河幹明の下で、『福澤諭吉伝』全4巻(昭和7年)、『続福澤全集』全7巻(昭和8〜9年)の編纂に従事し、それが終わったところで、義塾の職員となって、三田評論の編集担当等を務めていた。

塾歌の歌詞は昭和15年秋に完成し、翌16年1月10日の福澤先生誕生記念会の席上、ワグネル・ソサィエティーにより披露された。また、三田評論2月号には歌詞が綴じ込まれ、その裏面に富田による「塾歌に就いて」と題する簡潔な説明が添えられた。筆者はそれを基に、富田が作詞に際して念頭に浮かべていた2つの故事を考証したことがあるので、紹介してみたい。

「見よ 風に鳴るわが旗を」とオランダ国旗


   見よ   
   風に鳴るわが旗を  
  新潮寄するあかつきの  
  嵐の中にはためきて  
  文化の護りたからかに  
  貫き樹てし誇りあり
   樹てんかな この旗を  
   強く雄々しく樹てんかな  
      あゝ わが義塾  
      慶應 慶應 慶應

慶應4年、尊皇攘夷の勢いと戊辰戦争で国中は混乱し、学塾は官私を問わず閉鎖し、学者も行方をくらましているような状態の中でも、慶應義塾は毎日の授業を続けた。5月15日、上野で繰り広げられていた彰義隊の戦の日も、砲声を聞きながら、福澤先生がウェーランドの経済書を講じたことは有名である。富田は1番の説明で、当時、「我が国の学問の命脈を維持し、日本文明の旗じるしを護ったものは、実に我が慶應義塾在るのみであった」こと、「福澤先生がこの時、在塾僅かに18名の青年学徒に向って、この塾のあらん限り日本の文運未だ地に墜ちず、諸君それ努めよと、鼓舞激励した事実は、我が国の学問教育の歴史の上に誇るべき話柄」で、それを表したと記している。 その時、福澤先生が鼓舞激励したエピソードは、後に先生自身が、『福翁自伝』の「日本国中ただ慶應義塾のみ」という見出しの所で次のように語っている。

「顧みて世間を見れば徳川の学校はもちろんつぶれてしまい、その教師さえも行方がわからぬくらい。まして維新政府は学校どころの場合ではない。日本国中いやしくも書を読んでいるところは、ただ慶應義塾ばかりという有様で、そのときにわたしが塾の者に語ったことがある。

「昔々ナポレオンの乱にオランダ国の運命は断絶して、本国は申すに及ばずインド地方までことごとく取られてしまって、国旗を挙げる場所がなくなったところが、世界中わずか1カ所を残した。ソレはすなわち日本長崎の出島である。出島は年来オランダ人の居留地で、欧州兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭(かんとう)に翻ゝ(へんぺん)してオランダ王国はかつて滅亡したることなしと、いまでも和蘭人が誇っている。シテみるとこの慶應義塾は日本の洋学のためにはオランダの出島と同様、世の中にいかなる騒動があっても変乱があっても、いまだかつて洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ。慶應義塾は1日も休業したことはない。この塾のあらんかぎり大日本は世界の文明国である。世間にとんじゃくするな」と申して、大ぜいの少年を励ましたことがあります。」

つまり、「見よ 風に鳴るわが旗を」の「旗」は青赤青の塾旗を単に指しているのではなく、そこに『自伝』で語っているこの時の気概を重ねて歌っているのである。

ちなみに、この出来事は芝新銭座の塾でのことである。その直前に築地鉄砲洲から移転したばかりのことであった。

福澤先生が、その10年前の安政5(1858)年、藩の命で大坂の適塾から呼び寄せられ、築地鉄砲洲中津藩中屋敷内に蘭学塾を開いた時は、「3、4年は」という腰掛けのような感覚であった。しかし、欧米の事情に通ずるにつれ、日本の文明化と独立の為に、洋学に基づく教育の重要性を強く認識するようになる。そして次第に塾としての形を整えて来ていた。

そのような中で、築地鉄砲洲一帯が、外国人居留地に指定され、立ち退かなければならなくなったこともあって、芝新銭座に約400坪の土地を購入したのは慶應3年12月25日で薩摩藩邸焼き討ちの日。塾舎を建て、完成移転したのが慶應4年4月、まさに江戸騒乱の中、周囲からは奇異に見られながらも独り悠然と塾の移転を進めたのであった。

移転が完成した時に、慶應義塾の命名書にして独立宣言とも言うべき「慶應義塾之記」を記しているが、そこでも、洋学の系譜を詳細に記し、その系譜を引き継ぐ者としての使命感を強く示している。これも1番の歌詞の大切な背景である。

先生は、塾歌の1番にも歌われた洋学の命脈を護った故事を生涯大切にし、慶應義塾の節目節目で強調して語った。「気品の泉源、智徳の模範」の言葉で有名な「慶應義塾の目的」を語った最晩年の演説も同様である。その中でこう語った。

「四面暗黒の世の中に独り文明の炬火(きょか)を点じて方向を示し、百難を冒して唯前進するのみ。兵馬騒擾(そうじょう)の前後に、旧幕府の洋学校は無論、他の私塾家塾も疾(と)く既に廃して跡を留めず、新政府の学事も容易に興るべきに非ず、苟(いやしく)も洋学と云えば日本国中唯一処の慶應義塾、即ち東京の新銭座塾あるのみ。」

そして、前述の、長崎出島のオランダ国旗のエピソードを紹介してこう結んでいる。

「同志の士は是等(これら)の故事を物語りして、我慶應義塾は荷蘭(オランダ)の国旗を翻したる出島に異ならず、日本の学脈を維持するものなりと。」

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