【特集:慶應4年──義塾命名150年】
塾歌に歌われた慶應4年
2018/05/01
「往け 涯なきこの道を」と小幡甚三郎
往け
涯(かぎり)なきこの道を
究めていよゝ遠くとも
わが手に執れる炬火(かがりび)は
叡智の光あきらかに
ゆくて正しく照らすなり
往かんかな この道を
遠く遙けく往かんかな
あゝ わが義塾
慶應 慶應 慶應
冒頭の部分は、先生がしばしば揮毫した「愈究而愈遠(いよいよきわめていよいよとおし)」から来ている。また、「わが手に執れる炬火(かがりび)は」の部分は、前述の「慶應義塾の目的」の演説の「四面暗黒の世の中に独り文明の炬火(きょか)を点じて方向を示し、百難を冒して唯前進するのみ」に対応している。
つまり、学問の途は、究めれば究めるほど愈々遠く遙かなものであるけれども、進むべき方向は、どんなに真っ暗闇の時代であろうとも誤ることなく示し続けるのだ、その目標に向かって悠然と歩み続けようと歌っているのである。
では、その進むべき道とは何か。富田が思い浮かべていたのは小幡甚三郎(おばたじんざぶろう)の故事であった。富田は、「建塾以来社中の固く執って揺がざる報国致死の研学精神は、我等の踏み拓く学芸の曠野(こうや)に一路炳乎(へんこ)たる方向を指し示すものである。第二聯はすなわちこの意味である」と記している。「報国致死」という字面だけを見て、当時の時節柄からその意味を誤解しないよう注意する必要がある。富田が「報国致死の研学精神」と記す時は常に甚三郎の故事を語る時であり、福澤先生がそのことを語る時に使った言葉から来ているのである。
小幡甚三郎は、後に先生のよき女房役となった篤次郎の弟で、草創期の義塾にあって、実務に優れ、芝新銭座から三田への移転などで大きな働きをしただけでなく、それまで乱雑無規律な書生風だった塾内の風儀を改めることにも大いに貢献した人である。その才能が期待されて明治4年、渡米留学したが、明治6年1月、フィラデルフィアの病院で亡くなった。先生が終生その死を嘆き惜しみ続けた人である。
この甚三郎の故事とはどのようなものであったか。先生が時事新報に記した「故社員の一言今尚(いちごんいまなお)精神」によって見てみたい。今の言葉に改めてその意を紹介したい。
戊辰戦争のさなか、官軍が西から攻めてきて、明日にも江戸市中が戦乱に巻き込まれようという時、江戸の市民は、一身の安全を図ろうと大慌てになっていた。洋学者の中には、官軍も外国人と事を構えることは好まないに違いないと、横浜の居留地に逃げる者、仮に西洋の籍に入る者もあった。また、つてのある者は、外国公館の使用人であるという証明書を貰って、護身に役立てようとする者もあった。塾にも、親切心で、アメリカ公館の雇い人の証明を手配してくれると申し出る人がいた。
その時、甚三郎が広間に走り出て、皆に向かって次のようなことを語った。すなわち、東軍と西軍が戦うといっても、つまるところ日本国内の戦争であり、内乱である。我々は学問を行い、この戦争に関係ないとはいえ、内外の分を忘れてはいけない。我々が共にこの義塾を創立し苦学する目的は、一身の独立をはかり、その趣旨を日本一国に及ぼすことである。この大義を忘れ、外人の庇護の下に免れようとするのは、目的を誤るもので、我が義塾の命脈を絶つものである。
そう語った甚三郎の表情は、「彼の印鑑の如きは速(すみやか)に之を火に投じて可なりとて、その語気凛々、決する所あるが如し。聞く者悚然(しょうぜん)として復(ま)た一言を発せず」であったという。この甚三郎の毅然とした態度によって、塾の人達は申し出を断っただけでなく、落ち着きを取り戻して学問に励むことになった。そして、社中の気風は益々確かになり、以後、動揺することはなくなったという。
先生はこのように語り、「報国致死は我社中の精神」と記した。晩年、自らの著作活動を振り返った「福澤全集緒言」でも自身の著作の解説に先立ってこの逸話を特に紹介し、「小幡甚三郎の一言は文明独立士人の亀鑑なりとて永く塾中に伝へて之を忘るゝ者なし」と記した。
富田は、塾歌と同時期に書いた「福澤先生の生涯」において、この甚三郎の故事に言及しているが、続けて、「左に自伝に記された一節を引いて、当時の先生の心境を窺おう」と次の一節を紹介している。
「そのときの私の心事は実に淋しい有様で、人に話したことはないが、いま打ち明けて懺悔しましょう。維新前後、むちゃくちゃの形勢を見て、とてもこの有様では国の独立はむずかしい。他年一日外国人からいかなる侮辱をこうむるかもしれぬ、さればとて今日全国中の東西南北のいずれを見ても共に語るべき人はない。」
「さりとて自分は日本人なり、無為にしてはいられず、政治はともかくもこれをなりゆきに任せて、自分は自分にていささか身に覚えたる洋学を後進生に教え、また根気のあらんかぎり著書翻訳のことを努めて、万が一にも斯民(このたみ)を文明に導くの僥倖(ぎょうこう)もあらんかと、便り少なくもひとり身構えしたことである。」
このような状況の中での小幡の故事であることを考えると、「報国致死の研学精神」とは、時勢に迎合することなく、また独立の誇りを喪うような振る舞いをすることもなく、この国の真の将来の為に、自らが大切だと信ずる学問を根気強く究め続ける覚悟を言うのだと考えることができよう。『学問のすゝめ』の、「一身独立して一国独立する」、「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」の「独立の気力」に通じると言うこともできる。
塾歌が作られた時代
塾歌の3番には「春秋ふかめ揺ぎなき」、つまり歳月を重ねても義塾の精神は些かも揺るがないのだと歌っているが、塾歌が作られた昭和15年という年はどのような時代だったのであろうか。
当時、慶應義塾は、西洋文明を導入した福澤諭吉の学校、自由主義の学校として、軍部やその周辺から様々な言いがかりをつけられるようになっていた。その頃のことを、義塾の職員であった昆野和七は、「どこからともなく、福澤攻撃、福澤思想の抹殺論が、強力に流布された。新聞、雑誌上ではないが、流言は流言を呼んで、慶應義塾出身者にとっては、どうにも気になることで、(略)日常の生活にも差し響きを感ずるという情勢であった」と記している。
そのように義塾は難しい立場におかれていたが、毅然とした姿勢を崩さなかった。例えば、思想を理由に文部省の思想局が教員の処分を求めて来た時には、塾長小泉は最後まで文部省の要求を頑なに拒絶した。富田はその文部省との折衝を担っており、「(小泉)先生実にそういう時には強硬ですよ。「文部省の役人なんぞに、なんのかんの言われてたまるものじゃない」てなことをよく言いました」と後に回想している。しかも、他大学を思想問題で追われた教授にも図書館の公開を続けたので、その様子を探ろうとする私服刑事が、図書館脇の神代杉の陰に身を潜めていることもあったという。
このように歌詞の意味を知り、更に時代の空気を知ると、塾歌が抵抗の精神を底に秘めた歌のように感ぜられる。1番、2番の歌詞の説明で記した慶應4年当時の世情を、戦時下の状況に置き換えて読み直すと、その勇気に深い感慨を覚えざるを得ない。
しかし、塾歌は、声高に抵抗の精神を叫ぶのではなく、信時潔の曲想とも相まって時流からも超然としており、決して単なる時節への抵抗に矮小化していないことも特色であろう。まさに「遠く遙(はる)けく往かんかな」であり「高く新たに生きんかな」なのである。これは、塾歌で歌われた慶應4年の2つの故事は、戦前、戦後の平穏な時代にあっても、富田が一貫して大切にし続けていたものであったこと、そして将来永く歌い継がれることを富田が意識して作詞に取り組んだことによると思われる。
更に加えれば、小泉信三の毅然とした姿勢と富田への信頼、富田の篤実で精緻な福澤諭吉研究の蓄積、その中で磨かれた慶應義塾流の文体があってこそ生まれた塾歌であった。小泉が日頃の富田の労に感謝して父小泉信吉宛ての福澤諭吉の書簡を表装して贈った際の跋文で小泉はこう記している。
「富田君は曩(さき)に石河幹明氏が福澤諭吉伝を撰述するを輔(たす)け、後に慶應義塾々監局に入り兼ねて義塾の文章を掌(つかさど)る。君が文章平明の文字の裡(うち)に痛烈なる気概の人に迫るものあるを蔵すのは、蓋(けだ)し福澤先生以来吾党文章家の最も尚ぶ所を得たるものと謂(い)うべし。」
富田は3番の説明で、「揺ぎなき基礎を確立した此の学問の牙城を護る我等の胸は限りなき矜持に満つるのであるが、この誇りを持つ者には、又それに相応しき責務を伴わねばならぬ」と記した。慶應義塾命名150年に際し、塾歌には慶應4年の2つの故事が歌われていること、福澤先生や義塾が国賊として言いがかりをつけられる困難な時代に、時流に迎合することなく、時流から超然として作られたことの意味を改めて考えたい。それらに思いを致して歌う時、3番の「執る筆かざすわが額(ぬか)の 徽章(しるし)の誉(ほまれ)世に布(し)かん」のくだりに、今までとは異なる重さを感じるのである。
2018年5月号
【特集:慶應4年──義塾命名150年】
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