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【特集:慶應4年──義塾命名150年】
座談会:慶應4年の福澤諭吉

2018/05/01

国家像の模索

小室 先ほど先崎さんがおっしゃったように、この年に幕臣を辞し、自分自身は「読書渡世の一小民」を目指すわけですが、中津藩に関してはどのように考えていましたか。西澤さん、この点は、いかがでしょうか。

西澤 いま、福澤はいったいどの時点で幕藩体制では駄目だと考え始めたのだろうと悩んでいます。福澤は王政復古(慶應3年)以後も、まだ自分の中でどういった政治体制が日本にとって一番いいのかという明確な意見はなく、版籍奉還が具体化する頃から変わってきているのではないかと思っているんです。

中津藩に関しても文久2年にヨーロッパから出している手紙で、洋学による人材育成を主張するのですが、それは中津藩に対する提言で、ほかの藩に負けてはいけない、中津藩がとにかく他の藩に先鞭をつけられることがあってはならない、という言い方で、やはり藩に対する意識はまだ強いように見えます。

福澤の中では、ある時期までは幕藩体制により国家がしっかりしているという前提が、日本が文明開化を進めていくためには必要だと思っていたのではないか。だから、「大君のモナルキ(君主政治)」(慶應2年、福澤英之助宛書簡)ということも言うのではないか。ヨーロッパで様々な成り立ちの国を見たからこそ、国家の外交権の確立が重要であると考え、基盤は変えない方がよいと思っていたのではないかと思います。

ところが、明治3年になると、中津藩に対して「一身独立して一国独立す」「真の大日本国」と説くわけで、そこに大きな変化があるのかなと思っています。やはり慶應4年頃というのが、ターニングポイントなのではないかと思います。

小室 福澤は、「一国独立」の基礎に「一家独立」も置いていますね。その点で、この時期の国家像と家族像の関係はどうだったのでしょう。

西澤 福澤は文久3(1863)年に長男が生まれて、次男が慶應年間に生まれ、第3子の長女は新銭座に移った慶應4年の閏4月10日に生まれています。同年に『西洋事情外編』が刊行されますが、そこでは人間や家族というものがどう成り立つべきかが書かれている。そこで福澤は、感情によって結びつく夫婦が本(もと)になって人間の交際が始まるという家族像を、訳出ですが初めて述べています。

自身が家族を持ち、子どもも次々と生まれる中で、家というものはどうあるべきか。家族を大きく社会の基礎として変えていかなければいけないという考え方は、外国を見て帰ってきたときから、始まっていたのではないかと思います。同時にどのような国家像をつくっていくのか、いままでの考え方が大きく変わって、一身の独立を根本に置いた新しい国家づくりを目標として掲げ始めた時期なのではないでしょうか。

芳賀 文久2年のヨーロッパからの帰りに、船の中で松木弘安や箕作秋坪と日本はこれからどうすべきかをしきりに議論していますね。結局、ドイツみたいな一種のフェデラル(連邦)制度、諸大名が自分の領民に対して責任は持つけれども国家として政治の主権は大君に集中させる。つまり「大君のモナルキ」にしていく以外ないだろうというようなところに落ち着く。

福澤くらいのインテリならば、今の幕藩体制で諸藩がそれぞれ独立して動いているようでは国内はバラバラで、これからの国難に対応できないことは強く自覚していて、文久2年当時にもう幕府は持たないと分かっていたんじゃないでしょうかね。その体制に代わるものがだんだんと絞られていく。

小室 そうですね。列藩同盟では駄目で、「大君のモナルキ」でなくてはいけないと考えていましたね。しかし、それもだんだん変わってくる。

芳賀 でも大君のモナルキというのは、朝廷側も幕府側も考えていましたね。大君を真ん中において、大名の中の有力者を大臣として置いて支配する。あれは孝明天皇時代にも朝廷の中では盛んに出てきている議論です。

それでは駄目だ、将軍を切り落とせというのが岩倉具視とか大久保利通、木戸孝允らのラディカルな主張で、結果はそちらの動きになるわけです。

小室 福澤自身もやはり現在進行形でいろいろと考えている状況なのでしょう。藩についても、西澤さんのお話のように、ある時期まではまだ藩の組織を利用することへの期待もある。

芳賀 でも、満19歳で中津から出奔し初めて長崎に行くとき、後ろを振り向いて、藩に向かって唾を吐きかけて、こんなところに戻ってやるか、と言ったというのは非常に格好いい(笑)。自分の足で、自分の生まれたところに砂をかけて飛び出す。これはヨーロッパの啓蒙時代、レッシングなんかもそうだった。

新しい学問への熱中

小室 西澤さんもご指摘されましたが、慶應4年は、『西欧事情外編』が出ています。これは翻訳書で、その原書は自由主義経済学の一般向け教科書だと言われています。しかし、それではこの時期に福澤が自由主義経済学の信奉者であったかというと、必ずしもそうではない。新しい経済学を読んで、夢中になっているというのが実態であって、自由主義経済論がいいとか悪いではなく、その分析の方法や新しい考え方に夢中になっているのだと思います。

初期の慶應義塾がすごい人材をたくさん生み出したのは、先生自身が夢中になって現在進行形で勉強しているからなのですね。それが周りの若者を巻き込んでいく。慶應4年というのは、まさにそういう時期なのではないかという気がします。

先崎 1つ小室さんに質問ですが、『西洋事情』が自由主義経済の書といったときに、その当時の欧米での経済学思想というのはどんな感じで教えられていたのでしょうか。

小室 おおまかに言えば、古典派と言われている自由主義経済学が基本ですが、古典派の枠組みを守りながらも社会政策にも理解を示すJ.S.ミルなどが先導をしている時代です。また、ドイツでは、古典派に対抗して、それぞれの国や社会の歴史的な実態を重視するする歴史学派が勃興しており、英米へも影響を与えていました。

しかし、英米では、一般向けのテキストとしては、古典派の枠組みは崩れていない。『西洋事情外編』のもとになったジョン・ヒル・バートンの本も、神田孝平(かんだたかひら)が『経済小学』と題して訳したウィリアム・エリスの教科書も自由主義経済を基本とする古典派です。彰義隊の戦闘のときに福澤らが読んでいたウェーランドの経済書も同様です。

先崎 なるほど。なぜそういう質問をしたのかというと、日本は文学でも古典派とロマン主義とか、西洋では縦軸でつながっている歴史がドッと同時に入ってくる傾向があるんですね。例えば10年くらい後ですが、中江兆民の場合は、ことあるごとに「マンチェスター派の経済学派は」と言って、自由主義経済を批判し、フランスから帰ってきて儒教の勉強をして道徳の重要性を指摘したりしている。そういう流れからすると、福澤はどういう感じなのかなと。

小室 経済学に関しては、まだ学習中なのだと思います。非常に同感しながら学んでいますが、ひとかどの経済論者としての確信があるわけではない。

明治10年、同志とも言うべき小幡篤次郎がウェーランドの経済学の全訳(『英氏経済論』)を出版しますが、その 序文で、小幡は、ウェーランド流の自由主義経済論への疑問を示しています。

小幡や福澤は、もうその時期には日本のような後進国では、政府の役割も重要だという考え方になってきている。しかし、慶應4年段階では、まだ勉強中だったのだと思います。

芳賀 福澤のような頭には、おそらく政治よりも経済がおもしろかったでしょうね。数式で行けるから。ヨーロッパに行ったときから、同行の幕臣が汽車のレールの高さは何センチ、車輪は直径何メートルなんて言っているときに、福澤はこれをつくる大変なお金はどうやって工面したのかということを考えている。経済的な頭はもともとあったんだね。お父さんは大阪の米蔵の番頭だし。

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