三田評論ONLINE

【特集:「排外主義」を問い直す】
座談会:「外国人問題」の構造から何が見えるか

2025/12/05

家庭の中で立ち現れる排外主義

塩原 バックラッシュの中で口を閉ざしてしまいかねない人がいる。アライ的な立場に立つことが難しくなっているということですね。

伊藤さんにここでお伺いしたいのは、身近な人が突然排外主義化する、ネトウヨ的な言動を始めるという話をよく聞きます。このあたりはどのように考えればいいですか。

伊藤 テレビの別の番組で、親がネトウヨになったという企画をやっています。こういったケースは本当に多くて親だけではなく子どももそうです。つまり、路上にこれだけ右派のレイシストが出てきたということは家庭の中にも当然いるわけです。

聞き取りをすると、家庭の中の事情が大きいことがわかります。親が左翼だったので反発して右翼になったとか、あるいは妻と娘が2人ともフェミニストで、家の中でお父さんの居場所がなくなってレイシストになってしまった例もある。そういう家庭の中での孤立などが原因という例は結構多いのです。

これからの私たちの戦いは、路上ではなく家庭の中で行うべきなのではないかという気がしています。しかもこれは戦いではなくて対話です。家庭の中で、なぜそのような思いをしてしまうのか。1つ1つきちんと議論をし、家庭の中で理解し合いながら、対話を続けていく必要があると思います。

実は、参政党的なアジェンダというのは非常に強い。要するに「普通の人たち」であることを強調する議論が非常に多いのです。何かの原因があって、「普通の人たちであるあなたたちが苦しんでいるんだ」という論理です。

例えば参政党は主婦の支持者がとても多いのですが、「専業主婦でいいんだよ」みたいなことを言ってくれるわけです。「普通の日本人であるあなたは大変だけど間違っていない。あなたを助けるよ」みたいに言って、普通でまともで、真ん中にいる自分たちみたいなことを強調し、そこに自信を持たせてくれる。すると孤立している人たちは簡単にそれを真に受けてしまう。

参政党のアジェンダは、もともと表面的には結構左派的なのです。積極財政をやるとか、子育てに10万円あげるとか入口はとてもまともなのです。そして、まともなものが周りから攻撃されているんだという話にする。外国人が日本を侵略して、メガソーラーをたくさん敷き詰め、日本のエネルギーをのっとっているというような話です。そこで、「そうだよね」と思ってしまう人が結構多い。そういう現象が家庭の中で起きている。いきなり極右になるという話ではないのです。

参政党が極右だと思っているのはわれわれだけです。当人たちはまったく右翼だとも排外主義者だとも思っていない。ただ自分たちの安全な生活が脅かされているので、それを守りたい。そして自分がいろいろな意味で不当な扱いを受けて孤立しているんだという感情を喚起させられている。

こういうことが、「普通の人」の中にすごく浸透しているのです。それをある特定のインフルエンサーがレイシズムに結びつけ、盛り上げて皆が対象者を攻撃する。これをものすごく普通の人が普通にやっているのです。

支持者は本当に普通の人たちです。自営業の方とか寄る辺がない、あるいは家庭の中で孤立してしまっている中で起きている現象です。これらをまとめて見ると排外主義に見える。実際、被害者も生じてしまうのですが、1人1人の心の中では攻撃しているつもりはない。そこがやはり恐ろしい部分です。

インフルエンサーの扇動による攻撃は加害者1人1人の中の当事者性から発しているのですが、被害者の当事者性は全く見えていない。自分自身は普通の当たり前のことをやっていると。それが被害者にとってどんなことになるかは全く想像がつかない。やはりSNSの中では被害者の複雑な当事者性みたいなものは見えないんですね。

参政党のタウンミーティングで話を聞くと、おれたちはサークル活動をやっているんだ、みたいなことを言うのです。ネットワークがない人たちが、自分たちを救ってくれるからと集まってくるみたいな。それが集積してこういう形になってしまっている。最初からレイシストがいるわけではないのです。

そういった加害に結び付く行動を防ぎ止めるのは、家族内の対話、あるいは近隣との対話だという気がします。

上からの排外主義

塩原 森さん、今のお話を聞いていて、フランスあるいはヨーロッパの状況との対比という点ではいかがですか。

 最初から排外主義者やレイシストではない、というところには共感して伺っていました。何か現状を少しでも良くする上で、そこは出発点として大事だなと思います。

フランスの状況は本当にいろいろなケースがあります。昨年、岩波の『世界』でも書いたのですが、農村でも極右の支持が広がっており、衰退した地域で生き延びるため、コミュニティに居場所を確保するために極右であることがまともな人間の証となるような状況もあります。

その一方、フランスは40年前と比べて、極右の主流化が大きく進んでいます。その中で従来、極右を批判してきた中央政府の中に、極右が主張してきた反移民的政策や排外主義が浸透している点も捉えることが大事です。

フランスで最近注目されているのは、いわゆる億万長者で極右思想を支持する人たちがメディアなどで影響力を広げていることです。例えばヴァンサン・ボロレが次々とメディアを買収し、これまでのフランスの大手メディアには出てこなかったような言説が当たり前と化しています。テレビ局、ラジオ局、大手の出版社グループを買い取ることで、メディアへの極右の影響を拡大しています。これはアメリカのトランピズムの中の、ビリオネアたちともつながると思いますが、こういったメディアを通した「上からの排外主義」も看過できないでしょう。

「上からの排外主義」といえば国家による排外主義も重要な論点です。フランスで継続的に排外主義のターゲットにされてきたのが、旧植民地出身のムスリムです。ある時期までは、フランスに同化するいいムスリムとそうでないムスリムがいる、というような政策を行ってきたのですが、2015年の同時多発テロ事件以降、大きく状況が変わってきました。

1つ例を挙げると、これまでフランスのムスリム差別の数を集計する、反イスラムフォビアの会という市民団体がありました。全くラディカルでなく、単に差別の集計をし、差別を受けた人の法廷闘争の支援をしている団体でした。しかし数年前、その団体は国家によって解散に追い込まれました。

このように大手メディアや国家による上からの排外主義が、草の根の排外主義にお墨付きを与えるという構図を見ることも大事です。実際、フランスでは国家の排外主義が強まる中、今年もモスクでの信者殺害事件などヘイトクライムが起きています。

塩原 まさに日本でも、政府は「外国人との秩序ある共生社会」の名の下に、排外主義とは一線を画すると言いつつも、国益に資さないと見なされた外国人の排除を進めていますね。また政治家による「犬笛」というキーワードも注目されています。

「日本人」とは誰か?

塩原 林さんにお伺いしたいのですが、伊藤さんが言われた、家族の中の差別や排外主義というのは在日コリアンの生きてきた現実の中では、結婚差別などに代表されるように、遍在するテーマだったわけですよね。家族関係の中で生きづらさを抱えている人々が、サークル活動感覚で自分らしさを取り戻し、それが排外主義につながっていく、という先ほどの話は在日の今まで歩んできた歴史から見て、どのように考えればいいのでしょうか。

林 私は小中高と日本の公立校で学んできました。幼少期は親族に、朝鮮語をちゃんと覚えろ、民族意識を高めろと説教されていました。それがいやで仕方なかった私は、「朝鮮的なるもの」を避けながら10代を過ごしました。

その経験をふまえて在日が置かれた現状を見ると、排外主義的言動に触れ続けた在日が、コリアンであることを自覚させられる・・・・・契機が増えていると感じます。コリアンであるとあまり意識してこなかったけれど、それを本質的に捉え直す人もいるでしょう。けちんぼうなヘイトスピーチに負けないためにも、民族アイデンティティを再構築しようとする人がいてもおかしくありません。それがいいか悪いかは別として、とくに、指先でソーシャルメディアを使いこなす若い在日にとっては、つらい局面が続いています。

一国の政治を担う以上、「日本ファースト」はむしろ当たり前でしょうが、「日本ファースト」が争点化するとなると、胸がざわつきます。問題は、そのスローガンの下で掲げられる提案が、多かれ少なかれ陰謀論や誤った情報に基づいていることです。外国人の「公金チューチュー」だとか、生活保護の受給世帯は外国籍が30%を超えているとか(実際は3%未満)……。挙げればきりがありません。

私は、かつて「朝鮮」籍から韓国籍へ変更した在日コリアンです。ヘイトスピーチはたしかに傷つきますが、誤解を恐れずにいえば、傷つくことへの心の準備があるといえばあります。戦後日本で飛びかってきたヘイトスピーチの長大なリストに、新奇なフレーズが加わったな! とか、時代をドライに観察する心の余裕を失いたくないなと思っています。

私が一番痛切に感じるのは、日本国籍のもと日本人として育ってきた、日本語ネイティブのミックスルーツの子どもたちのことです。「私は、日本人ファーストの「日本人」の中に入っているのだろうか?」そんな実存的な不安を強める子は多いと思います。

参政党の新憲法構想案(第19条)には、「帰化」した日本人に関する差別的条文が掲げられています。日本人ファーストを唱える人たちが考える普通・・の日本人から、こぼれ落ちそうな人がいる。その人たちがむやみやたらと煽られる焦燥感は、察するに余りあります。たぶん多くの人は、ふだんと同じ元気をよそおって日常を送っているでしょう。でも家に帰ったら、ホッと胸をなでおろす日々かもしれません。日本人ファーストや排外主義のカジュアルな共感者は、当然、その人の生活圏内にもいるでしょうから。

私などは、かつて確信犯的な「同化」主義者でした。今でも日本人と手を取りあって生きる毎日だし、国民ではなくとも市民の1人として、簡単に日本を見限りたくない。普通の日本人からこぼれ落ちそうな人たちも、ある種の中途半端な立ち位置、どっちつかずの日々を、何とか生きているかもしれません。民族アイデンティティが先鋭化しやすく、白黒はっきりつけろと迫られる時代に、そういったやせ我慢の中庸を維持する人こそ、支えていかないとだめだと私は思います。

塩原 中途半端と言いますが、まさにそこがいわゆる「共生」というものが目指してきたところでもあるわけですよね。対抗言説に振れるわけでもなく、もちろん排外主義でもなく、その中間的なものを目指していこうと。「中途半端さ」を肯定的に評価していこうという感覚がどんどん持ちづらくなっているのは私もとても感じます。

私の慶應での授業をミックスルーツの学生が履修してくれることも多いですが、授業中の発言や課題レポート、授業を聴く際の表情から、彼・彼女たちの生きづらさが垣間見える瞬間も増えたように感じます。

望月さんはどう感じられていますか。

望月 「日本人」という言葉や概念は多義的で、日本国籍のような制度的な部分と、見た目や言葉などに関するイメージの部分とで、重なったり重ならなかったりすることがあると思います。

その上で、日本社会で起きている変化の実態から考えれば、まず日本国籍という意味での「日本人」の範囲をもっと広げられるようにしないといけないと思います。現在の国籍法は血統主義で、外国籍の親同士だとその子どもは日本で生まれても日本国籍になりません。ここを広げる方向にしないといけないし、ほかの国でも例えばドイツではそのように変えてきました。

日本ではそうした制度的な変化を実現してすらいないのに、その段階で早くも参政党的なものが出てきてしまった。アメリカではトランプが出生地主義をやめたいと言って、時計の針を巻き戻そうとしていますが、制度的にはその巻き戻った先にあるのが日本です。

参政党は帰化してから3世代を経るまでは公務員になってはいけない、みたいなことまで言い始めています。日本ではもともとの土台が低いところから始まっているのに、そこに世界で広がるバックラッシュの流行を取り入れてしまえば、むしろより悪い状況になってしまう可能性もあるでしょう。上からの排外主義のあり方について言えば、参政党のような極右政党がアウトサイダー的な立ち位置から政府や与党に圧力をかけて政策が変わるということが日本でも起きないか懸念される。同時に、アメリカのように極右が権力のど真ん中に入ってしまい、様々な政策が直接実行される形になるとやはり桁違いのインパクトがあると、今のアメリカ社会を見ていて感じます。

先日、チャーリー・カークというトランプ政権に非常に近い保守派の活動家が暗殺されましたが、その後カークに対してSNSで批判的なことを書いたりした人々を政権側が取り上げ、名指しで犬笛的に攻撃して黙らせようとしています。加えて、同じ理由で政府の職員を辞めさせたり、発言者が外国人の場合には、ビザを取り上げるという形で、国家が直接的に権力を使うということまでやってしまう。

アメリカもここまで来るのが本当に早かったです。トランプの2期目が始まってからまだ1年も経っていませんが、その短い期間でここまでのことをやれてしまう、そしてそれでも一定の支持は揺るがないんだということをトランプ政権は見せつけている。日本でも、アメリカではこういう形でうまく行っているんだからと、同じような変化を起こそうとする動きを懸念しています。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事