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【特集:未来のモビリティ社会】
田中 大介:未来のモビリティ社会のどこへ行きたい?──「スマートシティ」の手応えをめぐって

2025/11/05

4.モビリティ社会の構造転換

いずれが正しいのかは、今は見通せないし、それらはかなり重なりあっている。たとえば、自然環境の変化や情報技術の発展などの共通する要因がある。その一方で、その帰結には、①都市の巨大施設化(高層化・要塞化)、②都市の縮小、③反都市化といったバリエーションもある。先に述べたように、さまざまなアクターの規範・希望・予測がからまりあいながら、ある程度の幅に収まっていくのだろう。そのトレンドを次のようにまとめておこう。

アーリによれば、19世紀に鉄道が登場して以降、大量の人びとが機械交通に詰め込まれて動いていく「公的移動化」(吉原直樹・伊藤嘉高訳2007=2015『モビリティーズ』作品社、138頁)が始まる。伝統社会から産業社会へ変化するなか、機械化された公共交通が発展し、広範囲から多数の人びとが移動し、高密度で、流動性の高い大都市が形成された。

さらに20世紀後半の自動車所有は、個人の自由を表現し、他者との差異を示す私的な欲望を加速させた。20世紀前半のアメリカの諸都市において、公共交通機関としての路面電車が、自動車関連企業の諸活動によって排除されていったことはよく知られている。それと連動するように、「みんなと同じ/違う自動車を所有/運転したい」という消費者の─その多くが広告・宣伝によって作られた─「見栄」や「欲望」が加速し、自動車は普及した。モータリゼーション、そして都市の郊外化は、いわば「私的移動化」として進んだのである。

21世紀以降のモビリティの未来像は、それを逆回転させようとしている。つまり、「私的な欲望」が加速することで形成された環境負荷の高い20世紀の自動車社会から、情報技術を用いて、多様な速度を調整・集約する環境負荷の低い「公共交通」を中心とする21世紀社会への回帰。その主要な担い手が、ビッグテックやトヨタのようなプラットフォーム企業なのか、ヘルシンキなどのように自治体・コミュニティなのか、Society5.0のように政府なのか、それらがどのように組み合わされるのかは、まだわからない。しかし、脱炭素と情報化、「直線的な加速」から「多元的な速度」へ、「私的交通」から再び「公的交通」へという構想のレトロスペクティブな方向性は共通する。

上記のような大きな流れはみえてきたが、それを左右するもののひとつとしてここで気になるのは、冒頭で述べたスマートシティの手応えのなさ・・・・・・である。

5.私たちはどこにどのように行きたいのだろうか?

未来のモビリティは、より便利になる、より安全になる、より地球にやさしい─むろんそうした「正しさ」は重要だ。また、アーリのように、気候変動の破局や管理社会の浸透といったディストピア・イメージで危機感を高め、望ましくない未来を回避することも重要だろう。

しかし、現代の「未来のモビリティ」は、大衆的な欲求・欲望の所在、そしてその具体的なかたちがわからないまま、未来を求めてはいないか。モビリティの未来に関する「こう行くべき」「こう行ける」という政治的・経済的・技術的な言説・イメージは溢れている。そして、情報化した「多元的・公共的なモビリティ」の構想はおおよそ共通する。しかし、私たちの「どこにどう行きたいのか」は置き去りにされていないか。人びとを均一に扱えなくなり、「未来」を直線的に描けなくなっているからこそ、回顧的なものも含めた多様な未来像が氾濫する。高度成長が終わり、技術進化のインパクトがかつてほどには期待しにくい先進諸国共通の現象かもしれない。

だからこそモビリティ社会の未来の幅は、私たちの欲求・欲望によって広がりもすれば、狭まりもする。軌道を外れたり、進みを止めたりすることもある。重要なのは、「ここに、こうやって行きたい」という私たちの未来像だろう。遠くに? 近くに? 速く? 遅く? 頻度は? 手段は? そこにどのような手ごたえを感じるか、その選択肢はすでに用意されはじめている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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