【特集:戦争を語り継ぐ】
都倉 武之:慶應義塾史における戦争研究の課題と可能性
2025/08/05
戦争遺跡としてのキャンパス
昨夏、これまで収集した一次資料を用いて、慶應義塾史展示館の企画展「慶應義塾と戦争─モノから人へ─」を開 催した(図録は現在も販売中)。この展示に合わせて、初めて三田キャンパスを「戦争遺跡」と銘打った史跡巡りを企 画した。日吉キャンパスには有名な日吉台地下壕があり、戦後はアメリカ軍が4年間接収していたので、「戦争遺跡」 という言葉を使っても、さして疑問を持たれないかもしれないが、三田キャンパスにそのような眼差しを向けること は、従来なかった。
このツアーの目玉スポットは慶應義塾図書館旧館の屋根裏だ。この建物は1945年5月25日深夜の空襲で大閲覧室(現慶應義塾史展示館)や事務室(現福澤研究センター)、ステンドグラス、八角塔などを焼失している。書庫は当日の宿直者たちの懸命の消火活動で類焼を食い止められたのであるが、第一書庫の屋根と屋根裏(大時計の裏側の空間)は焼失した。2019年に竣工した保存修理工事で、この屋根裏部分から、空襲で焼失した時の曲がりくねった鉄骨が発見された。現在の小屋組の内側に残されていたのである。空襲後の修理は、階下の図書を雨漏りから守る応急処置で1945年10月着工、翌年2月に完成したと記録されている。大閲覧室や事務室などは焼け落ちたまま放置され、1949年春にようやく改修された。おそらく緊急性と財政的理由から、鉄骨を残置してその上に屋根をかけてしまったのであろう(時期のずれた他の部分は鉄骨を撤去している)。東京のど真ん中で空襲の痕跡をこのように伝える遺物が残されている例を他に聞かない。
またこの建物の外壁には空襲で損傷した痕跡が今なお随所に残されている。ファサード上部のペンマークの周囲の 彫刻がはげ落ちたままとなっている箇所などは特に目立つが、戦後それが意識されたことはほとんどなかった。『慶應義塾図書館史』にたった1行、戦後の修復工事の際、外壁の損傷が「戦火から再建された建物たることを記念する ために故意に」保存されたと記されている。正面玄関より中に入れば、かつては白亜に輝いていた北村四海(しかい)作の大理石彫刻「手古奈(てこな)」像が、戦災で腕を失い、黒く煤けた痛々しい姿で来館者を迎える。濃緑の蛇紋岩の三連アーチの表面も、よく見れば随所に損傷がある。慶應義塾図書館旧館は、間違いなく戦争遺跡であろう。
さらに視野を広げれば、南館の旧ノグチ・ルーム(1951年)も戦争に関連が深い。アメリカと日本の2つ のアイデンティティに苦しんだイサム・ノグチが、両国間の戦争を経て自己のアイデンティティを投影した造形で、 さらに暖炉は戦没者慰霊の意味が込められている。慶應義塾の原点の精神を猪熊弦一郎が具象化した、かつての学生ホールの壁画「デモクラシー」(1949年)は、今は生協食堂の壁面に飾られている。学生ホールの近くにあった菊 池一雄作の青年像は、戦争で声楽家の夢を絶たれた青年がモデルで、建築家谷口吉郎が復興されたキャンパス空間を 総合芸術に仕上げる上で添えたアクセントの一つである。
慶應義塾の法人本部である塾監局の正面には、慶應義塾関係戦没者の慰霊のために1957年に建立された朝倉文夫の「平和来」の像があり(昭和7年三田会の寄贈)、さらにそれと向かい合う形で1997年に「還らざる学友の碑」が慶應義塾により建立された。白井厚編「慶應義塾関係戦没者名簿」はこの碑に収められている。その両碑の裏には、学徒出陣で塾を去った学生たちが最後に通ったかつての正門、通称「幻の門」がある。この付近の石柵には金属供出で鉄棒が一度引き抜かれた痕跡が残っていたりもする。さらにキャンパスの南東隅には戦争で失われた旧福澤邸の基礎が今も残され、その付近には、以前は昭和23年三田会が卒業記念で寄贈した戦没者慰霊のための藤棚と木標があり、これはキャンパス空間内で戦没者記念を形にした全国的にも最も早い例の一つであったが、今では跡形もなく失われてしまった。……このように三田のキャンパスには随所に戦争の痕跡を語れるスポットがあり、全体で「戦争遺跡」と呼ぶことも強ち言い過ぎではないであろう。語ろうと思えば、歴史はそこにずっとあったのである。
慶應義塾の責任
慶應義塾は私立の存在意義を訴え続けた日本教育史上の位置から考えても、あるいはその日本有数の規模を考えても、戦争の歴史を多面的に語り続ける資格と責任を有する。多面的にそれを語るための資源を豊富に持つ学校としての位置をこれからますます確固としていかねばならない。それが、戦争の時代に存在していた教育機関として──現在では2231人確認されている慶應義塾関係者の死、さらには世界規模では5000万人以上と推計される死を意味あらしめ続けていくため──なすべきことであり、その歴史的責任の示し方であると考えている。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2025年8月号
【特集:戦争を語り継ぐ】
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