【特集:防災とコミュニケーション】
宮垣 元:ボランティア元年から考える民間支援の意義
2024/12/04
1.災害と民間支援
能登半島での大地震から1年、その甚大な被害の爪痕が残るなかでおきた豪雨災害から3カ月になろうとしている。被災地では、いまなお救援や復旧・復興のための数多くの活動が継続されているが、そこでは必ずボランティアやNPOによる支援活動の姿がある。
災害が頻発する昨今において、被災地での民間の自発的支援であるボランティアやNPOの存在は欠かせないが、溯れば、およそ100年前の関東大震災時(1923年)においてもこうした支援活動の様子が残されている。
よく知られるのは、東京帝国大学の学生が行った活動で、震災2日後には2千人にのぼる大学構内への避難者の救援活動が開始されていたという。この活動は、法学部教授であった末弘厳太郎氏と穂積重遠氏(NHK「虎に翼」で描かれた穂高教授のモデルとしても知られる)の尽力のもとで学生救護団を組織し、上野公園での救援活動へと展開している。それは同年10月半ばまで続き、やがて翌年6月には、困窮などの課題を抱える地域に入り込んで継続的な支援活動を行う帝大セツルメントへとつながっていく。被災という問題は、発災時の直接的な救援だけではない。その支援のなかでの気づきから、住まい、失業、貧困、公衆衛生、遺児の教育、住民自治やまちづくりなど、分野をまたいだ諸課題へと地続きであることを示している。後述するように、災害時に率先して展開される活動には若者の存在が大きい。帝大セツルメントに連なる救援活動は、若者により大規模に展開された災害ボランティア活動の嚆矢でもあった。
この「災害ボランティア」という語も、今日では一般的に用いられるようになっているが、それが社会的に広く用いられる契機となったのは1995年の阪神・淡路大震災であった。
阪神・淡路大震災が「ボランティア元年」として知られるのは、数多くの災害ボランティアが活動したことに由来する。その数は当初3カ月で延べ117万人、1年間で延べ138万人ほど(兵庫県県民生活部「阪神・淡路大震災一般ボランティア活動者数推計(H7.1~H12.3)」)。当時の時代状況としては、バブル経済の崩壊や政官財の癒着が明るみに出る事件が多くあった。既存の社会システムの綻びを象徴するような出来事が相次ぎ、社会全体に一種の閉塞感が漂う状況下での出来事でもあったため、都市部で起こった大震災の衝撃のなか、こうした支援活動への感銘とともに強い関心が向けられた。単に美談ではなく、誰に頼まれたわけでもない活動が、これだけの規模で起こり得た日本社会の潜在的な力や、ときに硬直的で非効率的になり得る官僚制的な組織や制度に阻まれるのとは異なる行動のあり方に可能性を見たからだろう。
前述の関東大震災での支援活動をはじめ、直前の1993年の奥尻島での災害時(北海道南西沖地震)などでもボランティアの参加が多く見られるなど、阪神・淡路大震災以前にも災害時にはボランティアは欠かせない存在となっていた。ただ、1995年が災害とボランティアにとって大きな節目となったのは衆目の一致するところで、1995年末には毎年1月17日を「防災とボランティアの日」とすることが定められ、今に至っている。また、同月改正された災害対策基本法には「ボランティア」の語が法律に初めて明記された。こうしたことも社会的影響の大きさの一端を示すものだろう*1。
2.慶應義塾の対応と義援金の意味
その阪神・淡路大震災の被災と支援には、慶應義塾やその塾生・塾員もかかわりがあり、当時の『三田評論』や「塾報」にも、その様子を伝える記事がいくつか残っている。精緻なデータまでは不明なものの、被害については、「教職員・学生本人の被災は少なかったが、その家族・実家等に多大の被害」があり、被災地域に約7800人の塾員が在住することから「相当数の方々に被害」があったとある(『塾監局紀要』23号、1996年)。記録の残る範囲で見ると、三田会である神戸慶應倶楽部の会員についてのまとめとして、死者6名(家族4名含む)、全半壊203戸にのぼっている(『三田評論』1995年10月号)。
これらの情報は、地震直後に塾内に設置された阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)災害対策本部を中心に収集され、必要な対応が講じられたとのことだ。対応の一環として、被災受験生・入学生への入学検定料や入学金・授業料の減免(延べ258件)、在学生に対する授業料減免と奨学金貸与などがあった(ともに145件)。
一方、義援金(義捐金)についても、各キャンパス教職員有志(総額875万円)、医学部・病院(555万7千円)、学生団体や学生個人(305万5162円)、一貫校全体(396万9937円)などが集まり、その他個別になされた支援や体育会などを通じたものもあった。いずれも有志によるものであるが、これらに加えて、慶應義塾からは200万円が出されている。さらに、当時の慶應連合三田会会長である服部禮次郎氏の回顧によれば、全国237の三田会・塾員グループから2000万円超の義援金があり、慶應連合三田会からの500万円をあわせて関西合同三田会に届けられたという(『三田評論』1995年10月号)。
阪神・淡路大震災の義援金全体の規模は、当時戦後最多とされる総額1788億円ほどにのぼっており、全国からさまざまな支援が寄せられた。そのなかでも、慶應義塾を介するつながりだけでこれだけの動きがあったことは記録されるべきことだろう。
前述の服部氏の回顧では、こうした動きを社中協力の表れとみて、1891(明治24)年に岐阜・愛知両県を中心に阪神・淡路大震災を上回る規模・被害となった大地震(濃尾地震)での福澤諭吉の提言にも触れている。
この濃尾地震に関して若干掘り下げると、『時事新報』で発表された社説は同年から翌年にかけ20編あり、政府による対応の必要性についてなど今でも示唆に富むものが多く残されている。なかでも義援金(義捐金)については、「同胞の感情を表す可し」(11月6日)と題する論説がある。ここでは、「僅々の義捐喜捨を以て幾十里内幾万人の罹災者を全く救助するは到底能はざる所なれども、我輩は此義捐物の多少論を外にして、此物あるが為めに人生の徳心を養成するの効能を重んずる者なり」と述べている点が興味深い。徳心と関連づけているのは、「畢竟其徳心を養成発達せしむるに外ならずして、人間社会の成立に必要あればなり」と考えるからである。続けて「これを受くる者も固より之を以て助かる可きに非ざれども」と述べるように、決して額の大小ではなく、こうした徳心の存在が社会をそうたらしめているという考え方がなされる。直接的に役に立つかどうかを超えて、こうした相互作用(「情を以て情に接する」)が社会の成立には不可欠なのであり、ゆえに「義捐の銭財、微なりと雖も、其効能は決して微ならず」と端的に述べられる。
こうした論説とともに、『時事新報』では義援金の募集が積極的に行われており、当時の金額で約2万6千円の義援金を集めたという(『広報ぼうさい』36、2006年)。『時事新報』のみならず、新聞というメディアが人々の支援の動きを促すのに大きな役割を果たしている。
2024年12月号
【特集:防災とコミュニケーション】
カテゴリ | |
---|---|
三田評論のコーナー |
宮垣 元(みやがき げん )
慶應義塾大学総合政策学部教授