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【特集:科学技術と社会的課題】
見上 公一:科学技術の倫理的・法的・社会的課題──科学史の視座から考えるその曖昧さ

2024/08/05

ヒトゲノム計画におけるELSIの検討

もともとヒトゲノム計画は、科学の発展が社会の関心と結びついたことで始められた一大研究事業である。生物のゲノムを構成するDNAが、二重らせん構造をとることが明らかにされたのは1953年、そしてその後、DNAの塩基配列を紐解くシークエンス技術が20年ほどの年月をかけて開発されていった。初めてウィルスのゲノムが解読されたのは1977年のことである。そのウィルスゲノムの塩基の数が5000を超える程度であったのに対し、ヒトのゲノムは31億塩基対である。同じ手法でヒトゲノムの解読をなし遂げるのは不可能に近いというのが当時の見解であった。しかし、それを細かく切断した時に得られるDNA断片について、元の並びを知ることのできる目印の存在が知られるようになったことで、1980年頃にはいよいよヒトゲノムの解読が現実味を帯びてきた。

ただし、技術的にはヒトゲノムの解読が可能だとしても、それには莫大な資金と時間を要すると予想され、アメリカの政府機関と科学者との間で繰り返し議論の場がもたれることになった。ヒトゲノム解読を後押ししたのは、その成果がもたらすであろう2つの恩恵への期待である。1つは、遺伝性疾患に関する理解が深まり、治療に向けた研究も躍進する可能性があったこと、そしてもう1つは、放射性物質が人体にもたらす影響をより正確に把握できると考えられたことである。このようにして1980年代の終わりには、ヒトゲノム計画実施の方針が固まり、DNAの二重らせん構造を明らかにしたジェームズ・ワトソンを初代ディレクターに迎えることで、最終的な調整が進められていった。

ヒトゲノム計画の実施に際してELSIの検討も併せてなされる必要があることを公言したのは、ワトソンその人であった。当時の関係者によれば、マスメディアに対してそのような見解を述べる前に内輪での調整は一切なかったという。1人の科学者の突発的な言動が歴史を動かした事例の1つと言えるかもしれない。

もちろん何の伏線もなかったわけではない。1980年代にヒトゲノム計画の実施について議論がなされる中で、アメリカ連邦議会の機関であったOffice of Technology Assessment(OTA)とアメリカ科学アカデミーの機関であるNational Research Council(NRC)が、それぞれヒトゲノム計画を実施することの意義や課題について調査を行い、その成果を報告書としてまとめている。それらの報告書は、優生思想を含めたヒト遺伝学研究にまつわる様々な懸念についても言及している。これらの報告書の存在は、予算権限を持つ連邦議会議員の知るところであり、ヒトゲノム計画実施のための予算承認を得る上で、そのような懸念についても何らかの対応をとることは不可欠だっただろう。

こうしてワトソンの発案によって、ヒトゲノム計画ではELSIの検討が同時に進められることになったのである。実際に立ち上げられたELSI研究プログラムには、ヒトゲノム計画の全体予算のうち3%が充てられることになった。

「その他」の側面に取り組むELSI研究プログラム

DNAの二重らせん構造の解明からちょうど50年にあたる2003年までに終了することを目指して1990年に開始したヒトゲノム計画には、アメリカ国内だけでも巨額の予算がつけられることになった。3%とはいえ、全体予算の大きさを考慮すればELSI研究プログラムの予算額は相当なものである。だからこそ、それによってどのような成果が得られたのかについては、批判の声も上がった。

何よりも、発案者であったワトソンは、ELSI研究プログラムが何に取り組むものなのかについて明確なイメージを持っていたわけではなかった。OTAやNRCが報告書で挙げていた様々な懸念は、主としてヒト遺伝学研究にまつわるものであり、生化学者であったワトソンがその詳細を十分に理解していなかった可能性さえある。報告書では倫理的な懸念や社会への影響が議論されているほか、法整備の必要性などにも触れているが、それらを「ELSI」という単語でまとめて扱っているわけでもない。ワトソンにとってのヒトゲノム計画の「倫理的・法的・社会的側面」とは、プロジェクトに参画する科学者が主として取り組むヒトゲノム解読の科学的および技術的な側面以外の部分、つまり「その他」の位置付けでしかなかった可能性が高い。

だからこそ、ELSI研究プログラムは公募型の研究プログラムとして実施されることになった。明確なイメージがない以上、トップダウンで実施すべき研究の内容を特定することは難しく、関心を寄せる研究者がボトムアップで取り組むべき研究課題を提案することが求められた。ワトソンにとっては、具体的な検討内容がどのようなものであれ、そのような研究プログラムが実施されていること自体に大きな意味があったのである。

ワトソンはヒトゲノム計画の早い段階でディレクターの職を辞することになるが、その後を継いだフランシス・コリンズの下でもELSI研究プログラムは継続された。遺伝についての教育内容から、遺伝子検査を行う上でのカウンセリングの手法、さらには遺伝差別の問題まで、様々な研究課題が扱われたが、全体としてのまとまりのなさゆえにその成果を問う声も少なくなかった。それでも、遺伝学者であったコリンズはワトソンよりも取り組まれる研究課題の重要性を理解していた様子であったし、研究プログラムの存在がそのような課題に取り組む人材の育成に貢献をしたことも間違いない。先述のように、奇しくもワトソンが撒いた種は、その後の国内外の科学技術の研究開発に大きな影響を及ぼすことになったのである。

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