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【特集:エンタメビジネスの未来】
柳澤 田実:消費社会の宗教、ファンダム・カルチャー

2024/04/05

感情が現実を作る

「聖なる価値」に基づく推し活は、主観的には充実感に満ちているだろうから、ウェルビーング〔=幸福〕に繫がるという主張も理解できなくはない*3。しかし、やはり宗教と同様に推し活もまた、個人や社会にとって有害にもなり得るものだ。実際どんな宗教であっても、宗教の信者は全般的に宗教に属さない者より健康で幸福度が高いというエビデンスはあるが、だからと言ってカルトも含めたすべての宗教が推奨されるべきではないのと同様である。

多くの時間とお金が費やされる推し活には、受動的な消費以外に、より能動的な行為も含まれており、いわゆる2次創作以外にも「推し」の分身のぬいぐるみを作り、その写真を撮影したり、一緒に旅行をしたりする「ぬい活」、「推し」のアクリルスタンドを飾る祭壇作り、「推し」の誕生日にケーキを作って一緒に食べた気分になるなどの行為がある。一言で言うと大の大人が子どものままごとやごっこ遊びのようなことをするのだが、これは一体なぜなのだろうか。

あたかも神を「推す」かのように、神とコーヒーを飲むふりをする福音派キリスト教徒について、人類学者ラーマンは発達心理学者ドナルド・W・ウィニコットに基づき解釈している。ウィニコットは、遊びは心と世界の中間領域で生じると述べ、この中間領域は、願っても変わらない外的な現実と、子どもの内的な希望や恐怖といった感情的な現実との間に存在すると考えた。人間は「神」をこの中間領域において経験する。なぜなら、「神」とは基本的に「世界とは善いものだ」という感情的なコミットメントにほかならず、そのような善さが実際には存在しないにもかかわらず、世界が善いものであると信じることだからだ。ウィニコットは、大人が善い世界を信じる能力は、いなくなった母親が戻ってくることを信じる幼児の能力と似ていると考えていた。そして、大人にとっての神の概念は、子どもにとってのテディベアやブランケットとほぼ同じ機能を果たしていて、その両者は同様に「感情的に現実的(emotionally real)」なものとして経験されると論じている。

「推し活」もまた「感情的な現実」を求める盛大なごっこ遊びだと言えるのではないか。ラーマンはこのようにリアリティを感情、とくに肯定的な感情に求める傾向は、アメリカでは1960年代以降高くなったと指摘し、この時期に急激に普及したニューエイジと合体したカリスマ的福音派キリスト教や個人の感情操作を目指すカウンセリング文化を挙げている。個人にとって肯定的な感情を持つことを理想とするこのアメリカ的イデオロギーは、(どのような経緯かはわからないが)「自己肯定感」という心理学の概念が日常語となった現在の日本でも共有されているように見える。「感情的な現実」を追求する推し活が有害になり得るのは、第1にそれが感情という不安定なものに依拠するために際限がなくなるからであり、第2に客観的な現実に対する無関心に行き着く可能性があるからだ。「推し活」の中毒性の原因は、主観的感情にフォーカスする彼らの現実観にもあるのである。

「推し」と結ばれる社会的な関係

また「推し活」=ファンダムは、やはり宗教同様、社会にとっても無害ではない。しばしば異なる宗教同士、あるいは同じ宗教内部で立場の違う者同士が激しく対立するように、ファン同士の集団内での対立は多い。このような感情的な対立を生む「推し」への強い執着と自己同一化は、「聖なる価値」からも説明可能だが、もう1つ社会的関係という点からも説明できる。

人はそれが虚構のキャラクターであっても、目に見えない存在と社会的な人間関係を結ぶことができる。1960年代にテレビが多くの家庭に定着するにつれ、視聴者がテレビに登場するキャラクターと親密な関係を築くという現象が生じた。社会学者のドナルド・ホートンらはこの関係を「パラソーシャル」と呼んだ。「パラソーシャル」とは字義どおりには「擬似社会的関係」だが、実際には会ったことのない誰かに対して、まるで実際に親しく関わっているかのような親近感を抱くということである。人は、アイドルや芸能人などの実在する人物だけでなく、漫画やアニメ、ゲームなどの実在しない2次元キャラクターも「推す」わけだが、ファンは「推し」と消費活動を通じて頻繁に関わることで、パラソーシャルな関係を結ぶ。先述のラーマンによれば、このパラソーシャルな関係は強力にその人に作用する。

人は信念だけでなく、関係も持つと理解すれば、その激しさをより一層理解できる。結局のところ、信念というものは、1セントコインのように拾ったり手放したりできるもののようだ。あなたは自分が信じていることについては、考えを変えることができる。(中略)しかしながら、関係は、あなたが何者であるかを変えてしまう*4。

こうしたファンが「推し」と結ぶパラソーシャルな関係を理解するにあたり、ドナルド・トランプの支持者(=トランピアン)は格好の例だ。現在大統領選に再挑戦しているトランプは、2020年にはコロナ対策に失敗して多数の米国人を死に追いやり、2021年にはアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件に関わり、現在襲撃事件への関与や詐欺罪など複数の罪状で訴えられてもいるが、2024年4月現在、共和党の大統領指名権争いでトップを独走している。彼が大統領に返り咲くことを阻止するために、訴訟や批判は逆効果で、かえって支持を広げている印象さえあるのは、彼の支持者がまさに彼とパラソーシャルな関係を結ぶファンに他ならないからだろう。つい先日、メキシコとアメリカ合衆国の国境を視察するトランプに「トランプ!」と嬉々として声をかける不法移民の姿がテレビで放映されていた。トランプ自身「彼らはトランプが好きみたいだ。信じられない」と苦笑いしていたが、この出来事は、自分に不利益な政策を掲げる政治家だという認識以上に、トランプへのパラソーシャルな親近感が勝ることを示す証左だと言えるだろう。リアリティ・ショーに出演していたトランプは多くのアメリカ国民とパラソーシャルな関係を結んでおり、大統領になってからはソーシャル・メディアを介して世界中にファンダムを拡大した。ファンは自分が関係を結ぶ「推し」が逆境に陥れば、一層「推し」を献身的に応援しようとする。より大きなファンダムを築いた者が社会をコントロールしていく時代は、すでに到来しているのである。

異なる現実を生きる

以上で述べてきたように、ファンダム・カルチャーとは生きる価値、肯定的な感情、社会的関係に対する人間の根本的な渇望に基づく文化であり、世俗的な消費社会の擬似宗教になっている。一見したところ、物を購買したり、趣味に興じているようにしか見えないとしても、人は「推し活」で「推し」との情緒溢れる関係と自分だけの現実を築き上げており、しばしばそこででき上がった現実はもはや他者と共有不可能なほど堅固なものになっている。ファンダム・カルチャーが主流になり、個々人がまったく異なる「推し」に献身的な「推し活」に励む現在、私たちは同じ社会にいながら互いにまったく異なる現実を生きている可能性が高くなっている。アメリカのリベラルがトランピアンをまったく理解できないように、あなたの隣にいる誰かも、あなたにはまったく理解できない現実を生きているのかもしれない。

アメリカのメディアでは行きすぎたファンをスタン〔ファンとストーカーの合成語〕と呼ぶなど、ファンダム・カルチャーに対する一定の批判がつねに存在してきた。これに比して日本では経済効果とウェルビーングの実現さえあれば何でも良いものであるかのように、ファンや「推し活」に関して肯定的な論調が圧倒的に強い。今年になって村雲菜月の『コレクターズ・ハイ』のような小説も登場し、ファンが愛情の名の下に経済的に搾取されていることへの批判がようやく散見されるようになってきた。ファンベースで経済活動を行う業界には、無批判に「推し活」へと人々を囲い込むことは、経済活動だけではなく、人の認知や現実認識のあり方、ひいては私たちの社会全体にまで深刻な影響を与え得るという自覚を持って欲しい。ファンダムが林立し、客観的現実への関心がますます薄れる中、「同じ現実を生きること」こそがこれからの社会の最大の課題になるだろう。

〈註〉

*1 Clay Routledge, Nostalgia: a psychological resource, Routledge, 2015.

*2 ジョナサン・ハイト『社会はなぜ右と左にわかれるのか──対立を超えるための道徳心理学』高橋洋訳、紀伊國屋書店、2014年。

*3 「幸せには「推しが大事」予防医学研究者が言う訳」東洋経済オンラインhttps://toyokeizai.net/articles/-/510192(2024年3月6日閲覧)。

*4 Tanya Luhrmann, How God Becomes Real, Princeton University Press, 2020.(邦訳『リアルメイキング(仮)』柳澤田実訳、慶應義塾大学出版会、近刊)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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