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【特集:エンタメビジネスの未来】
柳澤田実:消費社会の宗教、ファンダム・カルチャー

2024/04/05

  • 柳澤 田実(やなぎさわ たみ)

    関西学院大学神学部准教授・塾員 

推し文化の興隆

もはや日本のメディアで目にしない日はない「推し文化」は、英語圏ではファンダム・カルチャーと言われる。アイドル、スポーツ選手、アニメキャラからもはや素人と区別のつかないYouTuberや地下アイドルに至るまで、様々なものを人は「推し」、それを自分のアイデンティティのように語る。20世紀後半にオタク文化と揶揄されたマニアックな消費活動は、21世紀になって誰もが実践する「推し文化」となった。同様に欧米でもナード〔英語で「オタク」を意味する〕カルチャーはファンダム・カルチャーとして市民権を得て今に至る。アメリカ大統領だったバラク・オバマが自分をナードだと呼び、人々がそれをクールだと受け取ったのは2016年のことだ。

ファンダムによる「推し活」は経済をも駆動している。推しの活動をSNSでチェックし、推しのグッズを買い、推しと他企業とのコラボに足を運び、推しの公演チケットに何口も応募するなど、推し活の経済活動は非常に活発である。ファンダム・エコノミーという概念に象徴されるように、マーケティングはファンという消費者集団の形成を目指すようになり、アーティストであれブランドであれ、いかにファンを囲い込み、注意を引きつけ、多く消費させるかが要となってきた。K-popが牽引してきたファンダムベースの経済はソーシャル・メディアの拡大とともにあらゆるジャンルで増幅し、インスタライヴやTikTokなどの日々大量に発信されるファンサービスはもはや飽和状態にも見える。

推し活という宗教?

私の見立てでは、推し活は消費社会における一種の宗教だ。とはいえこの見解自体は筆者のオリジナルではまったくない。そもそも推し活をする人たちは自らの推しを「神」と呼び、ファン同士の対立を「宗教戦争」と呼び、推しグッズを並べた棚を「祭壇」と呼ぶなど、自ら推し活が擬似宗教であることを明言している。また熱狂的なファンを客観的に眺めた時、一種のカルト宗教のように見えることを経験的に知っている人は多いはずだ。

消費社会の擬似宗教は、推し活=ファンダム以外にもたくさんある。いかにも宗教的に見える「スピリチュアル〔かつての「精神世界」〕」や自己啓発、コロナ禍に拡大した各種の陰謀論はもちろんのこと、過去を懐かしむノスタルジーなどもそこには含まれる。ノスタルジーとは実在する過去への郷愁ではなく、現在の視点から理想化した「過去」、いわば虚構に対する信仰だからだ。日本でも「推し活」がブームとなる前には映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)に代表される「昭和ノスタルジー」「昭和レトロ」の流行があった。これらの消費社会の広義の宗教はすべて、伝統的な宗教の衰退と近代を支えた進歩史観という神話の行き詰まりを背景としている。かつての伝統的宗教や神話に代わる形で、これらの新しい宗教は、生きることの意味や価値を人々に供給していると考えられている*1。その意味でも「推し活」は、いわゆる宗教と同様に盲目的で有害にもなり得るが、同時に、人が生きる上での切実な問題、つまり生きる意味や価値と深く関わっており、それゆえ決して軽視できないものである。

聖なる価値

ファンがしばしばカルト的に見えるのは、彼らが正気とは思えないほどのコストを費やし「推し」を応援するからだ。時間であれお金であれ、最大限「推し」に捧げようとする彼らは、まさに信者と呼ぶにふさわしいほど献身的である。しかし、こうした「推し活」を支えるマインドセットは、人間として決して異常なものではない。

人は自らが神聖視する対象に対して、非常に献身的になり得る。ここで言う「神聖さ」とは必ずしも非日常的な感覚ではない。例えばあなたは景品としてもらった高級万年筆を転売することには抵抗がなくとも、親友が誕生日にくれたボールペンを転売することには心の痛みを感じないだろうか。また打算的な恋愛に嫌悪感を感じたり、臓器や赤ちゃんを売買することに抵抗感を覚えることはないだろうか。心理学者のフィリップ・テトロックや人類学者のスコット・アトランらは、こうした感情は「聖なる価値(sacred values)」に基づくと説明した。価値には「善い/悪い」「正/不正」「快/不快」など様々なものがあるが、「浄(聖)/不浄」もまた人間の価値判断の中で重要なものだと彼らは主張する。アトランらによれば、人間は特定のものを神聖視し、その聖なるものは決して経済的にトレードされるべきではないと感じ、金銭に還元することは神聖さを汚すことだと感じる。

人は、先に挙げたボールペンの例のように個人的に何かを神聖視することもあれば、集団で「聖なる価値」を共有することもある。国を神聖視することはナショナリズムを形成し、宗教が特定の場所を神聖視すれば聖地となる(現在パレスチナに対して常軌を逸した攻撃を続けているイスラエルを想起されたい)。「愛」や「生命」は、人類の大多数が神聖視する共通の「聖なる価値」の例である。合理的な近代国家はこうした不合理な心理と無縁に見えるかもしれないが、シャルリー・エブド襲撃事件の被害者の追悼集会で「自由・平等・博愛」を掲げたフランスは建国の理念を神聖視しているように見えるし、銃規制さえ拒むアメリカ合衆国の約半数の国民もまた「自由」を神聖視していると言えるだろう。

人は自分の「聖なる価値」をいくら金を積まれても手放したくないし、そのような交渉を持ちかけた者自身を汚らわしいタブーの侵犯者だと感じ、激しい感情的バックラッシュを起こす。高騰する公演チケットのためにしばしば借金をするなど、ファンが限界を度外視して金銭や時間を推し活に注ぎ込むのは、神聖なものは経済的にトレードオフされるべきではないという心理によると予想される。金銭に還元不可能なものに対して、節約という発想は持ってはならないのだろう。「道徳基盤理論*2」に基づく私の調査によれば、日本人は政治的なリベラル、保守を問わず聖性への感受性が押し並べて高い。このことは、特定の制度的宗教に所属する者は少ないが、スピリチュアル、推し活、ノスタルジーブームが世代を問わず蔓延する日本の現状と無縁ではないと私は推察している。

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