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【特集:エンタメビジネスの未来】
新島進:推すという生存戦略──推しを描く作品をとおして

2024/04/05

  • 新島 進(にいじま すすむ)

    慶應義塾大学経済学部教授 

推しは尊い?

昨今、「推し」という語は日常的に使われている。そしてその用法にネガティヴな意味合いはない。そればかりか「尊い」という語と組み合わされもする。今や社会通念上も、推しについての言説も、推していいんだよと挙ってわれわれの背中を押(お)す。しかし推しの免罪符化にはなにかモヤモヤしたものも感じる。この語は1980年代にアイドルファンの狭いサークルで使われはじめ、アイドルグループが台頭した2010年代に一般化したとされる――その背景には当然、テレビからインターネット、SNSへと続くメディアの変化がある。そしてアイドルを推すファンが今でも「アイドルオタク」や「ドルオタ」、あるいは単に「オタク」と呼ばれ、かつてこの語が極めてネガティヴなイメージで捉えられていたことを思うと、オタクであることこそがポジティヴな認知を得たということなのだろうか。あるいは語を言い換えることで、たとえば「パパ活」といった語同様、なんらかの後ろめたさを払拭したのか。実際、アイドルに「積む」、つまり推しと握手をするために大量のCDを買う(積む)ことと、キャバクラやホストで散財することの違いはなにか。身を滅ぼすほどでなければ、お金の使い道は個人の自由ということでいいのか。

このモヤモヤの正体を考えてみるとき、推しを描いた物語は推しについて実に豊かな示唆を与えてくれる。本稿では主に平尾アウリの漫画作品『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(徳間書店、2015年~)と宇佐見りんの小説『推し、燃ゆ』(河出書房新社、2020年)の2作品について検討をおこなう。ただし、その前に簡素な整理は必要だろう。

自己愛の充足とビジネス

推しを推すことは畢竟、現代のメディア社会を生きるための術である。熊代亨『「推し」で心はみたされる?』(大和書房、2024年)は主に、オーストリアの精神科医ハインツ・コフートが提唱した自己心理学の観点から推しを説明する。人が心の健康を保つには自己愛を充足させる必要があり、それは鏡映自己対象(と呼ばれる他者)から崇拝されることで承認欲求が満たされるか、理想化自己対象(と呼ばれる他者)を崇拝して所属欲求を満たすことで充足される。そうした行為は個々のメンタル管理に関わるのみならず、他者を要するものであることから個と個がソーシャルな関係を築く礎ともなる。

だが熊代亨氏によれば、現代(日本)社会は自己対象をとおした自己愛の充足が成熟しにくい社会になっている。自己対象は幼少期、両親との関係によって体験されるが(鏡映自己対象である母親に認められ、理想化自己対象である父親に憧れる)、核家族化はその体験を乏しくする。長時間労働、単身赴任によって多くの家庭で父親は不在であり、シングルマザー家庭はなおのこと、母親がひとりで理想化自己対象と鏡映自己対象を兼ねることは困難だ。そして従来、親に代わってそのロールモデルを務めてきた兄や姉、祖父母、親戚、地縁社会の構成員と子どもとの関係は薄まる一方である。つまり背景にあるのは接触過多社会から接触過少社会への移行なのだ。2020年代のパンデミックがそれを加速化させたことはいうまでもない。本稿執筆中、裸の男たちが護符袋を奪い合う岩手県奥州市の奇祭「黒石寺蘇民祭」がその千年の歴史の幕を閉じるという報道があったが、裸祭の廃止と推しの一般化はメディア社会の表裏を示しており無縁ではない。地下アイドルのライヴや生誕祭は文字通り、オタクの祭である。

そして、そんな自己愛充足の熟練度が低いわれわれの前に推しが現われる。アイドルやキャラはスマートフォンを覗けば一瞬にして現われ、そしてキラキラと輝く完璧な理想化自己対象だ。平成の時代、アイドル産業は秋葉原と結びつくことでアニメ文化の「萌え」と接合し、キャラもまた推しになった。推しを推すことで所属欲求は満たされ、推す人として認知されれば承認欲求も満たされる。そもそも理想化自己対象と鏡映自己対象の境界は曖昧であり、承認欲求の不足は推すことで埋め合わせができる。よって推すことはもはや現代のメディア社会で生き延びるための生存戦略といっていい。よって推しは肯定するよりほかない。そしてビジネスは現代人のこの欲求を見逃さない。「私たちの社会では承認欲求や所属欲求は完全にビジネスになっていて、かつてはキャバクラやホストクラブ、プロ野球やプロレスといったかたちをとっていました。それが今日ではゲームやアニメのキャラクタービジネス、あるいはインフルエンサーのビジネスといった形をとるようにもなり、商品としてパッケージ化された自己対象が広く親しまれています。/今日では、お金さえ用意できればいつでもどこでも、ディスプレイの向こう側に自己対象を見つけ出すことができますし、ディスプレイの向こう側のキャラクターを自己対象として体験する文化が定着してもいます。その際、富豪のようなお金は要りませんし、東京ドームやコミックマーケットにわざわざ出かけなければならないわけでもありません。ビジネスとして自己対象が大量生産され大量消費される現状を視野に入れるなら、これほどナルシシズムを充たしやすい時代はなかったとさえ言えるでしょう」(熊代、115ページ)。アルコールを介した接触型のコミュニケーションから、メディアを介した非接触型のそれへ。もちろんここ数年は女性が消費者として台頭したことでホストクラブがらみの問題が表面化するなど、同時並行的にではあるが、現代人の自己愛充足の低熟練度とメディアのエコノミーさに注目した新たなビジネスモデルが生まれたのだ。だが問題は、そんな推しが完璧ではないということだ。完璧であるがゆえに完璧ではないのである。

“完璧な推し”のジレンマ

赤坂アカ、横槍メンゴの漫画作品『推しの子』(2020年~)の主題歌であるYOASOBI「アイドル」のサビは「君は完璧で究極のアイドル」であり、ヒロインの名にもちなむ「アイ」の音階は転調前ではこの曲の最高音(hiF)で、人の地声では出すことができず、歌手のikura も裏声を用いた歌唱をしている。この超高音は、アイドルやキャラ、つまりメディアの向こうにしか存在しない理想を言語化した「愛(絶対に手にできない喪失)」という語と、「完璧で究極」という語の意味をあまりにも見事に言表する。そう、推しが理想の・・・理想化自己対象になれないのは、本来、自己対象が有していなければならない欠点を持ちあわせていないという逆説に因る。熊代亨氏は「ナルシシズムの成長に必要な「適度な幻滅」が「推し」との間柄のなかでは体験できません」(116ページ)と説く。当然ながら、推すことで自己愛の充足はできても実社会はそれだけでは渡っていけない。実社会で接触しなければならない他者、多くの場合、上司や先輩や同僚などを自己対象として自らを成長させることは困難なままということになる。推しは完璧である上、万一欠点が認められれば、アイドル/キャラ産業は別の推しを星の数ほどエコノミーに提供する。われわれはビジネスに支えられたそうしたメディア環境に生きつつ、実社会ではそれでもまだ肉体を引き摺って生きていかなければならない。こうしたジレンマを物語が描くとき、われわれはそこにリアリティを見いだし、自身の愛との共振がおこるだろう。

『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(以下、『推し武道』)では、岡山県岡山市で活動している架空の女性地下アイドルグループChamJamのメンバーとファンたち、つまりオタクたちとの交流がコミカルに描かれる。流麗な絵柄と、独特の間を持つユーモアのセンス、そしてオタク生態の的確さ――いわゆる「あるある」――によって人気を博している。主人公は、えり(通称、えりぴよ)という若い女性であり、数歳年下のアイドル、市井舞菜を推している。同性同士であるが、いわゆる百合ジャンルとの接点は見いだしにくい(ほかにも複数の女性カップルがおり、女性同士の関係性を主軸とするのは作者の前作の長編「まんがの作り方」から一貫している)。また、現実でも女性アイドルを推す女性オタクは珍しくない。物語の基本パターンは相愛の2人のすれ違いコメディだ。平尾アウリ氏は短編を多く物している作家で、その作劇はスケッチ的であり、異性愛を描くことで否応なく生じてしまうノイズやドラマ性が排されることで、推すという行為がより純粋な形で表現されている。

そもそも『推しが武道館いってくれたら死ぬ』というタイトルは、推しを推すという愛のすべてを言いあてている。武道館とはYOASOBI「アイドル」が歌うところの愛(アイ)であり、死ぬという動詞はそこに達することはできないことを言い換えている。つまり伝統的な宗教が天国と呼ぶ場(武道館は神社の向かいにある)であり、物語学が「そして王子とお姫さまは幸せになりました」という、本を閉じた先にある場だ。岡山県の小さな町で活動しているChamJam は、日本と東京の中心、皇居に隣接する武道館から物理的にも象徴的にもっとも遠いところにおり、アイドルとオタクたちにとって武道館とは、到着することのできない愛という幻想の終着点である。よって彼女たちは幻の武道館を経めぐる。はじめて上京したChamJam のメンバーは日本武道館ではなく足立区にある東京武道館に行ってしまい(30話)、舞菜は自らの生誕祭にダンボールでつくった武道館を望む(52話)。笑いのなか、ここでは愛の本質がきわめて秀逸な形で描き出されている。

空白の使い方もこの作者の特徴である。えり、とりわけ舞菜はヒロインでありながら、その人物設定は最小限に留められている。『推し武道』実写版(2022年)で舞菜を演じた伊礼姫奈は唯一、アイドルではない子役出身の女優で、もっともキャラに寄せていないキャスティングがされていたが、それがゆえ、あるいは女優としての力量でこの空白をうまく表現していた。ChamJam での活動をしていないときの舞菜は街でも自宅でもつねに独りでいる。えりについては実家暮らし、パン工場で働いていることが描かれ、あるキャラを推している友人もいるが、「私は1人でいることが多かったから」(12話)といったセリフもある。母親は比較的頻繁に現われ、叔父叔母が登場する回もあるが、父親は一度も出てきたことがない。オタク以外のほぼ唯一の男性キャラはChamJamの運営をしている吉川だが、ファーストネームさえ付与されておらず父親のロールモデルを務めてはいない。この父親の不在、空白は、精神科医のいう先述の議論と合わせると興味深い。

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