【特集:エンタメビジネスの未来】
新島 進:推すという生存戦略──推しを描く作品をとおして
2024/04/05
オタクの鏡、ガチ恋、コミュニティー
えりと舞菜が、自己愛の充足に問題を抱える現代人のモデルであるならば、彼女たちはお互いがお互いの自己対象となり(孤独という点での類似から、双子自己対象)、自己愛を充足させることで安定が図られていることがうかがえる。そして読者はこの関係性をして自身の自己愛を(読書のあいだ)充足させる。しかし、その二重の安定をビジネスが支えていることをえりの言動は隠さない。実家暮らしの彼女はパン工場から得た収入のすべてを舞菜への推し活に使い、怪我をして働けなくなったときには「積めない私には存在価値がない」(9話)と嘆く。また、電車の車内で2人がばったり出会ってしまうシーンはきわめて印象的だ(6話)。期せずして劇場ではない、つまりお金を払っていない状況で推しに遭遇してしまったえりは、戸惑う舞菜に「ごめん車両……かえるから」といい、その場を立ち去るのだ。えりは、推すという行為がどんなシステムに支えられているかを理解している。
えりと舞菜は同性であり、また上記の理由で、そして先輩オタクのくまさと彼が推す五十嵐れおは、くまさが理想的なオタクであるがゆえに(2人はオタク側、アイドル側それぞれのリーダーという点で類似している)、この2組のアイドル/オタクの関係は安定している。それが読者をも安心させる。だが、もうひとりのオタク仲間で、ChamJam のメンバー、松山空音に恋愛感情を抱いている、つまり「ガチ恋」をしている基悠希はオタク修行中の身であり、彼の自己愛の充足は不安定だ(空音は、基の実の妹である玲奈に似ているという設定)。その彼がやはりガチ恋に悩む別のオタク、ただしやはり女性アイドルを推している女性オタクと出会うエピソードがある。そこで彼女は、ガチ恋の辛さから推すことを辞めたいが、「好きって強い呪文だから自分では解けないんですよ」(35話)というパワーワードをつぶやく。この出会いをきっかけに2人のあいだにはSNSを介したごくごくわずかな相互理解が起こり、基のメンタルは保たれる。そしてそのとき基はコンサート帰りの電車の車内におり、えりとくまさに囲まれている。『推し武道』がアイドルとオタクの関係を描くただの理想にも、ただの悲壮にもなっていないのは、このオタク3人組のソーシャルな関係がきわめて安定しているからだ。彼らは推しを推しつつ、その過程で、家族、地域、職場ではないコミュニティーのなかで(物語内での)現実の自己対象を見つけている。3人がネットで繋がりつつも、同時に、喫茶店のテーブルで膝を突き合わせてアイドル談義に花を咲かせるさまは疑似家族の団らん、家族のやり直しを思わせ、読者はその4つ目の空席に座す体験をするのである。
作品はまだ完結していない。とりわけ9巻ではChamJam不動のセンター、五十嵐れおのアイドル引退が予告されるという物語最大の引きがあり、次巻でくまさとの理想的な別れが描かれ、それに伴い、舞菜の空白に変化の兆しが見られるなど、ここ数話はこの作家にしてはドラマ性のある展開がなされている。もっとも衝撃的であったのは、れおの引退理由として祖母の介護を彷彿させるワンシーンがあったことだ。この一枚絵は、ジャンルは異なるも、同じく「推し」をタイトルに冠し、共通する要素を見いだすこともできるもうひとつの推し作品を想起させた。
推しをとおして生きる
2020年度下半期の芥川賞受賞作品、宇佐見りん『推し、燃ゆ』では、崩壊に向かう家族、精神不調、そのなかでの母子関係といった主題が描かれ、それはデビュー作『かか』(2019年)、最新作『くるまの娘』(2023年)まで一貫し、3作は連作をなしているとさえいえる。主人公のあかりは高校生だが、病院の受診で「ふたつほど診断名」がついた(精神的な)病を抱えている。幼少期にはなかなか字を覚えられず、母親と姉はそんな彼女に落胆を隠すことがなかった。今は定食屋でバイトをしているが仕事の覚えは悪い。家族や社会に適応できない彼女を支えているのはアイドルグループ「まざま座」のメンバーである上野真幸をただひたすら推すことだ。だが、高2の夏、その真幸がファンを殴るという事件が起こり、ファンコミュニティーは炎上する(燃ゆ)。やがて、あかりは出席不足で高校を中退することになり、同じ時期に死去した祖母の家で独り暮らしをはじめるもバイトは首になっており、働く能力はなく、それを理解できない家族との関係はさらに悪化する。そんななか、推しの真幸は結婚を示唆したうえで芸能界を引退する。あかりは希望のすべてを失う。「推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった」(112ページ)。
しかし、あかりは推しの結婚引退に絶望しているわけではない。「新曲が出るたびに、オタクがいわゆる「祭壇」と呼ぶ棚にCD」を飾ってはいても(36ページ、祭壇はもうひとつの武道館だろう)、彼女はガチ恋ではない。彼女はつねに、自分の身体ではなく、「普通に、生活できない」自分ではなく、もうひとりの自分というべき推しの心身をとおして世界とアクセスすることを望んでいた、そのことでなんとか生きながらえてきた。よって推しとの関係はメディア越しのそれでも構わない。「携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている」(62ページ)。社会に適応できないあかりは、周囲の人間との関係によって自己愛を充足させることを放棄しているように思われる。
そしてそれには理由がある。推しの炎上は作品の主たる出来事だが、この物語をより深部で駆動させているのは祖母の死であり、そこで改めて可視化される家族の崩壊である。葬儀のために家族が車で移動するという状況は次作『くるまの娘』でも反復されるが、『推し、燃ゆ』ではこの機に「単身赴任で日本にいない父、洒落た色のスーツを着こなし、時々帰ってきては明るく無神経なことを言う父」(90ページ)が一時帰国する。あかりは母、姉、自分という家族で育ち、その理想化自己対象になるべき父が不在で、鏡映自己対象になるべき母と姉はあかりの発達の遅れゆえにその承認欲求を満たさなかったことがうかがえる。あかりが推しをはじめて見たのは4歳のとき、子役だった真幸は舞台でピーターパンを演じていた。ピーターパン、ネヴァーランド(もうひとつの武道館)という記号も含め、ここには真幸がのちに、あかりの理想化自己対象になる要素がすべて揃っている。そして本来は母の代わりにあかりの自己対象を担うべき祖母は遠方に住んでおり、推しの引退と同時期に逝去した。あかりは、アイドルを辞してただの人となった真幸がおそらく結婚相手と住んでいるアパートを訪れたあと、自宅に戻り、ファンを殴った真幸の行為を、たまたま目についた綿棒のケースを投げつけることで反復する。彼女が散らばった綿棒を拾い集める姿は、推しを失って一度死んだ自分の骨、さらには祖母の骨を拾うそれと重なる。このときタイトルの「燃ゆ」は、祖母の火葬も含意する。
愛の現在地の確認
現実の世界では二足歩行ができず、学校と職場を追われ、推しを失うことで社会から、祖母を失うことで家族から完全に断絶したあかりに残されたのは、這いつくばって綿棒/骨を拾うことだけだった。あかりが、真幸のファンコミュニティーに続くコミュニティー、『推し武道』の3人組のような連帯を今後持つことができるのか、その希望は記されていない。『くるまの娘』が「心中をしない」という語で終わるように、「這いつくばりながら」、「当分はこれで生きようと思った」(125ページ)という語に微かな明かりを見いだすべきだろうか。ただ、あかりのそれまでの生きる術を思うとき、メディア越しの推し、武道館という幻想がただの空虚でないことは明らかだ。
推しを描いた作品は物語と表象の力で推すという行為の内実をまざまざと映しだす。その必然も、その危険も、その仕組みも。だから、われわれはそうした作品のページを繰る。なぜなら昨今、推しを考えることは己の愛の現在地を確認することであり、それは心の健康を測るバロメーターであるのだから。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2024年4月号
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