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【特集:認知症と社会】
木下衆:認知症の人の心はどこにあるのか──社会学の立場から

2022/11/07

解釈される「心」──相互行為を通じて

この2つの短いエピソードからでも、Mさんが夫の心をどんな風に読み取っていたのか、読者の皆さんには伝わっただろう。Mさんは、夫の状態を注意深く観察していた。夫の症状は、他の患者と比べてどんな特徴があるのか。あるいは彼の言動に、これまでと比べて変化した点はないか。そうやって現状を丁寧に観察する一方で、彼女は夫の症状や言動を、彼の性格やこれまでの夫婦関係など、つまり夫の人生(ライフヒストリー)と照らし合わせ、解釈していた。レビー小体型認知症の人は、しばしば不気味な虫の幻視を経験したりするというのに、同じ病気の夫が、なぜ・・子どもや親子連ればかり見るのか? それは、彼が優しい人だからだ。これまで在宅での生活を希望していた夫が、なぜ・・あっさりと施設入所を決断したのか? それは、妻を入院させるための、優しい判断だ。──このようにMさんは、夫の症状や言動に、意味・・を見出していた。

心と脳の関係を論じた山本貴光と吉川浩満は、「脳が判断や行為を可能にしているのは確かですが、その判断や行為の「意味」は脳の中からは出てこない」とした上で、次のように記している。

〔感情の持つ意味は、〕あなたと相手の個人史や二人を取り巻く人びとの思惑や社会的文脈を抜きにしては考えられません。

心の問題と呼ばれるものは、脳内活動のみを考えれば済むようなものではなく、それが本人やまわりの人間にとってもつ意味にもかかわっています。(山本・吉川2016)

Mさんの夫の脳は病に冒され、萎縮し、様々な形で変化していた。病は進行し、脳の機能は低下していた。

しかしだからといって、Mさんは、夫の心が無くなったとはみなさなかった。彼の症状や行為の意味こそが問題であり、それは夫の人生と照らし合わせ、夫を介護するMさんの側が解釈すべき・・・ものだと捉えられていた。

私はMさんの経験を、「新しい認知症ケア」時代に生きる介護家族の、一つの典型だと捉えている。もちろん、何が解釈のポイントとなるかは、人によって異なる。例えば、認知症の妻が、あんパンを食べたときだけ、「美味しい、美味しい」と「美味しい」を繰り返すこと(木下2021)。あるいは、認知症の女性が、自分の長男については語りたがらないこと(木下 2019)。こうした些細な場面を手がかりに、介護家族は、認知症の人が今何を思っているのか、何がその人らしい生き方なのかを、探っていた。

認知症の人の心は、認知症の人と介護家族の「あいだ」でなされる相互行為を通じて、見いだされている。介護家族は、認知症の人がこう言ったから、こんな風に振る舞ったからと、単純に相手の気持ちを決めてかかるのではない。相手の症状や行為を丁寧に観察し、その意味を解釈していた。

「心」は無くならない──症状が進行しようと、脳が萎縮しようと

しかし、このように認知症の人の心を読み取ってきた介護家族からは、しばしば後悔が語られる。「本人の気持ちを、上手く読み取れていなかったのではないか」「本人を傷つけてしまったのではないか」──介護家族は、そんな風に振り返る。

施設に入所したMさんの夫のその後を紹介しよう。彼は入所後、肺炎をこじらせて入院し、病院で亡くなっている。様態が悪化したという知らせを受けて家族が集まると、夫のベッドの足元で看護師が「〔この人は〕これ以上よくなりません」と家族に告げた。

この場面を、Mさんは今でも後悔しているという。

そのとき夫はパッと目を開いて、天井見たわ。もうものすごいブルーの目で。ああ、今この人、死を受け入れようとしてるなあと思った。辛かったわ。(Interview2019.8.16)

この看護師も、決して悪気があったわけではないのだろう。Mさんの夫は、死を間近にした状況だった。家族を集めて状況を説明するのは、専門職として当然の手順だったのかも知れない。

しかしMさんは、この状況に夫がちゃんと反応していたと気づく・・・。それは、Mさん本人にとっても予想外のことだった。そして、その見開かれたブルーの目の意味を解釈する。最後の最後まで、彼の心は生きていた。

恐らく、認知症に関わる多くの専門職も、Mさんのような経験をしているはずだ。認知症の人が「わかっていな い」と思っていたのに、実は「わかっていた」と気づく・・・。「認知症の人を傷つけてしまった、やってしまった」と後悔する。

そして、認知症の人が何を思っているか、介護する人たちの「あいだ」で解釈が分かれることもある(木下2019)。現在の高齢者介護は、仮に家族が主な介護者だとしても、介護保険制度のもとで様々な専門職が関わっている。認知症の人と多様な人との「あいだ」で相互行為がなされれば、そこで見いだされ、解釈される心のあり方は、ときに対立しうる。

こうした認知症ケアにおける悩みや葛藤が、介護する人たちの知識や能力の不足によるものではない・・・・・・ことに、注意してほしい。「認知症の人のその人らしさを、最後まで尊重する」という新しい認知症ケアの考えは、私たちの社会がたどり着いた、とても高い理想だ。それを実践しようとしても、上手くいくとは限らない。あるべきケア・より良いケアを、真面目に目指せば目指すほど、辛い思いをすること、失敗することも出てくる。

介護は、身体的なものだけではない。認知症の人との「あいだ」で、相手の反応を注意深く観察し、様々な知識と結び付け、その意味を解釈すること。私たちは、こうやって認知症の人の心を知ろうとすることは、大切な介護なのだと、認識する必要がある。

冒頭、「私たちは、認知症の人の心をどうやって・・・・・読み取っているのだろうか」と問うた。そして本稿では、社会学的には、それは人びとの「あいだ」でなされる相互行為を通じてなのだと、答えを出した。

それはつまり、どれだけ認知症が進行しても、その人のことを尊重したい、その人と関係を結びたいと思う人たちが、認知症の人の周りにいるということだ。それは家族であったり、専門職であったりする。その人たちは、悩みや葛藤を抱えながら、それでも認知症の人の心を知ろうとしている。

認知症の人の心は、人びとの「あいだ」にある。だからこそ、認知症の症状がどれだけ進行し、どれだけ脳が萎縮しようとも、認知症の人の心は、決して無くならないのだ。

〈参考文献〉

井口高志(2008)、『認知症家族介護を生きる──新しい認知症ケア時代の臨床社会学』、東信堂

木下衆(2019)、『家族はなぜ介護してしまうのか──認知症の社会学』、世界思想社

木下衆、(2021)、「認知症ケアはどこに向かうのか──「その人らしさを支える」の先へ」落合恵美子(編著)『どうする日本の家族政策』、ミネルヴァ書房:164-177

宮崎和加子(2011)、『認知症の人の歴史を学びませんか』、中央法規

大熊由紀子(2010)、『物語介護保険──いのちの尊厳のための七〇のドラマ』(上・下)、岩波書店

鎮目真人・近藤正基(2013)、「福祉国家を比較するために」鎮目真人・近藤正基(編著)『比較福祉国家──理論・計量・各国事例』、ミネルヴァ書房:1- 19

山本貴光・吉川浩満(2016)、『脳がわかれば心がわかるか──脳科学リテラシー養成講座』、太田出版

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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