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【特集:日韓関係の展望】
金相準:延世と慶應の交流50年──日韓私立大学の協力

2022/05/09

  • 金相準(キム サン ジュン)

    韓国・延世大学政治外交学科教授・塾員

延世と慶應、啓蒙の中枢

国家間における大学の交流と協力は、政府間の協力あるいは経済上の交流・協力とは別次元のものである。政治や経済的交流の背景には、利益の交換と拡大という属性があるが、大学の交流は市民社会の認識の拡大と新しい思考のための交流である。これは、大学という制度が他の社会的組織とは異なる理由で発生したことと同じ脈絡で理解できる。教師と学生の学問的共同体である大学は、11世紀頃西洋で始まった。中世ヨーロッパの変化に伴い、都市を中心に商業が発達し、市民の自意識が成長したことで、大学が出現したのである。大学の出現により、中世とは異なる新しい世界観、人間観が形成された。その後、大学は宗教改革、啓蒙主義、市民精神などの知的生産の根源地となった。結局、大学は世の中が持っていた非常に根源的な問題を解決するのに大きく貢献したのである。

延世(ヨンセ)大学と慶應義塾大学は、韓国と日本の伝統的な私立大学であり、共通して伝統社会に啓蒙的思考を伝える「始祖」としての役割を果たした。延世大学は、朝鮮末期、1885年4月10日に設立された韓国初の近代式病院である廣恵院(クァンヘウォン)が始まりである。

同病院の医療宣教師であるアレン氏の提案を朝鮮政府が受け入れたことで設立され、発足2週間で済衆院(チェジュンウォン)と改称された。牧師宣教師であるアンダーウッド氏は開院直前に来韓し、済衆院の医療事業を手伝い、教育事業と伝道事業を始めた。済衆院を基盤とした両人の医療と教育事業が現在に至る延世のルーツとなった。

1970年――交流の始まり

延世大学と慶應義塾大学が学術交流協定を締結したのは1970年のことだった。1965年、日韓国交正常化が実現してから5年経った時点だった。延世大学と慶應義塾大学の交流協定締結が遅れたのは、当時の多くの社会的要因が影響したと理解できる。

延世大学は日本の植民地支配以前に設立されたが、韓国の大多数の大学は1945年の植民地支配からの解放後に設立された。植民地時代の間、大学が設立されることは稀だった。1945年以降、大学が本格的に設立され始めたが、1950年代に最も多く設立された大学は国立大学であった。1970年代までは、韓国の多くの大学が未だ創始期にあり、海外の大学との交流などは想像することが難しかった。経済的にも、韓国は輸出志向産業を中心に国内生産品を海外市場に売り出すのが主だった。政府は国民の外貨消費を抑制し、国民の海外旅行は統制された。韓国で海外旅行が完全に自由化されたのは1982年になってからだった。

このように韓国社会が開放を先送りしていた時期に、延世大学は慶應義塾大学との交流協定を結ぶことになったのである。実際には、延世大学と慶應義塾大学が交流を開始したのは、日韓国交正常化直前の1964年のことだった。日本で延世大学と慶應義塾大学がサッカーの親善試合をしたのだ。慶應義塾大学との協定は非常に象徴的な意味を持つようになる。延世大学が初めて海外に目を向け、積極的に他国の大学との交流を本格的に始め、その中に慶應も含まれるようになったのだ。一方、冷戦期、韓国社会に対する米国の影響力が絶対的で、未だ反日感情が残っている状況で、延世大学は果敢に日本の大学との交流を推進することになったのである。

1970年10月、延世大学と慶應義塾大学の間の「交換計画協定」は延世大の朴大善(パクデソン)総長と佐藤朔慶應義塾長の間で締結された。現在、延世大学の博物館の記録保管所に保管されている当時の協定には次のような内容が含まれている。

Yonsei University, Seoul, Korea and Keio University,Tokyo, Japan hereby make it known to all of those concerned that both shall maintain the exchange programs with due regard of such that may contribute to the better understanding of respective cultures,educational cooperation, and exchange of knowledge,experience, personnel and others in various fields of academic studies.

Both institutions agree, through their lawful representatives to draw up and exchange such agreement that stipulate the detailed programs to promote the afore-said purpose.

この協定を土台に両校の国際課の担当者らは、毎年少なくとも1名ずつ研究者と大学院生を交換し、毎年多様な専攻と関連したビデオとジャーナルを交換することで合意した。延世・慶應協定の交換交流第1号は小此木政夫教授である。小此木教授は、延世に留学し、1972年の朴正熙(パクチョンヒ)大統領の十月維新も経験する。その後、慶應義塾大学法学部で韓国政治を教え、日本における韓国研究の拡張に一生を捧げている。

交換学生プログラムの活性化

1970年以降、延世・慶應間の協定締結にもかかわらず、交換学生プログラムが一気に進められたわけではないと思われる。1976年、久野洋慶應義塾長が延世大学総長に送った手紙は、「ここ数年間、延世大学と慶應は交換プログラムを進める上で困難を経験していた」という文章から始まっている。手紙は、交換学生プログラムを活性化するために、慶應は学部生の場合、日本語課程の授業料を免除し、1カ月あたりの生活費、大学院生の場合は授業料免除とともに1カ月あたりの生活費、そして到着時の定着金などを支給することを約束している。そして延世大学もこれに相応する措置を希望することで手紙を結んでいる。

そうした努力もあり、交換学生プログラムは活性化し、両校の国際課の担当者は忙しくなり始めた。当時の国際課は現在のような国際業務を担当する組織体系に成長する以前と推測される。現在、延世大学の記録保管所に保管中の、延世と慶應の間でやり取りされた多くの手紙は、交換プログラムに参加する教授と学生の便宜に関する内容である。誰が決定したのか、ビザ問題をどう解決すればいいのか、いつ到着するのかなどについての内容であり、このような状況はすべて国際郵便を介して伝えられた。

1980年代は、主にこのような交換学生プログラムをもとに延世大学と慶應義塾大学の関係が続いた。1980年代後半に新たに登場したのは、慶應が文部省(当時)の資源を延世と慶應の協力のために利用するというものだ。その恩恵を享受した1人が筆者本人だ。筆者の経験をもとに説明すると、慶應義塾大学は日本政府より世界中から約30人程度の文部省奨学生を選抜できる権限を与えられ、支援を受けた。慶應義塾大学は、その中で毎年一枠を延世大学からの留学生に充てていた。延世大学が学生を決めて日本に送れば、慶應義塾大学が受け入れて、そこで勉強できる奨学生になるのであった。筆者は、1988年に延世大学から派遣された文部省奨学生として、慶應義塾大学で勉強することができた。

1990年には、延世大学の政治外交学科と慶應義塾大学の法学部の教授の間の交流が始まった。1970年、交換学生プログラムが始まって以来、多くの延世大学の教授が慶應義塾大学を訪問し、延世大学では慶應義塾大学は外国の大学の中で最も馴染みのある名前になりつつあった。延世大学政治外交学科の李克燦(イグクチャン)教授は慶應義塾大学の訪問研究員になったのが生涯初の海外訪問だった。このように学者間の交流が頻繁になり、学科単位の交流が模索された。

現在も進められている最古の学科(学部)単位の出会いは、延世大学政治外交学科と慶應義塾大学法学部の交流だ。その交流は1990年に慶應義塾大学の山田辰雄教授と延世大学の金達中(キムダルジュン)、安秉準(アンビョンジュン)教授の間で教授たちの学術交流のためのプログラムを始めることについて合意したことで始まった。初めから学術交流は公式的な学術論文発表の性格を持つよりも「出会い」そのものに重きを置いたものだった。

このプログラムが発足して現在30年が過ぎた。その間、毎年東京あるいはソウルで両校の教員が会った。概ね10人余りの教授が相互に訪問し、ほぼ全員がシンポジウムに参加した。毎年様々なテーマが話し合われたが、その内容は、延世大学側は昨年1年間の韓国の政治状況について説明し、反対に慶應側は日本の政治状況について説明するものだった。いわば深みのある政治ブリーフィングと見ることができる。そして日韓関係を含む北東アジアの国際関係もほぼ毎年扱われるテーマだった。

この出会いが続いた背景には1970年代、延世大学に留学していた小此木政夫教授が慶應側の中心的な役割を果たしたことが大きい。そして小此木教授の退職後の現在は西野純也教授が務め、交流の責任を担っている。延世の場合はより公式化され、学科長が同プログラムを担当している。小此木教授の弟子だった西野純也教授は、小此木教授と同じく延世大学で学び、政治学博士号を取得した。

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