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【特集:中国をどう捉えるか】
国分良成:中国共産党100年──革命党のままの執政党

2021/08/05

毛沢東という圧倒的存在と負の遺産

中国共産党100年の歴史のうち、1935年の遵義会議から1976年の死去までの41年間は毛沢東時代である。その圧倒的な存在感と影響力は、中国共産党の体質に深く浸みこんでいる。中国共産党は1949年の新中国建国をもって、革命党から執政党に変わるはずであった。しかし現実には、この大きな体制変動のなかで、中国共産党の性格に本質的な変化はなかった。それは毛沢東の存在が大きい。

建国後の共産党は執政党になるはずであったが、結局は革命党としての性格を保持した。それは毛沢東の革命観、人間観の影響であった。社会主義政権、そして社会主義体制になっても人は絶えず旧体制や資本主義にあこがれ、体制の変質を企てる。それは特に人間の思想や政治の行動に現れ、やがて経済の体制まで浸食することになる。それゆえに、社会主義社会に到達しても革命は継続されねばならない。毛沢東の継続(不断)革命論がそれである。

この継続革命論をベースに、毛沢東は社会主義体制に批判的な知識人を弾圧する反右派闘争、精神主義で巨大な増産計画を企画し、大失敗に終わり数千万に及ぶ餓死者を出した大躍進・人民公社運動、劉少奇らの政策に懸念を示した社会主義教育運動と、それが不発に終わると不満を爆発させ、社会をカオスに陥れた文化大革命へと突き進んだ。

文革は毛沢東の死去まで続いた。その後、継続革命に固執した毛沢東夫人の江青らの4人組と、毛の後継指名を受けた華国鋒の失脚により、鄧小平が実権を掌握し、ようやく経済発展を目指した現代化路線に転換した。鄧小平の政策の柱は経済であったが、毛沢東の終身統治を教訓に国家・政府機関における任期制を導入するなど、政治体制の一定の変更を試みた。これは大きな前進であった。

しかし1989年の天安門事件などを契機に、経済の市場化は認めても政治的な民主化を容認しないいわゆる社会主義市場経済を基本に据えた。鄧小平時代における毛沢東の評価については、文革など晩年に誤りを犯したが、全体として業績のほうが大きいとするものであった。

その後、江沢民と胡錦濤の時代においても鄧小平路線が踏襲され、経済成長を主目的とし、政治体制については西側的な自由と民主を容認しないとの姿勢が貫かれた。そして習近平政権に入り、目立つのは経済鈍化のなかで政治統制のさらなる強化であり、チベットやウイグルなどの少数民族に対する漢族化の傾向、つまり中央集権の強化である。「1国2制度」を推進すべき香港においても、同様の厳しい措置が取られている。それと同時に、社会やメディアでは毛沢東とその時代を賛美する宣伝工作が展開され、時代に逆行したかのような状況となっている。

結局のところ、歴史を通して、毛沢東に対する全面否定はおろか、文化大革命などの負の遺産に関しても最後は曖昧な評価に終わり、近年の習近平時代になると、習を毛と並べるような逆行現象まで起こっている。なぜだろうか。毛の否定は、中国共産党の正統性そのものの否定につながると考えられているからである。

「中国的特色」というイデオロギーの曖昧性

中国革命の成功は毛沢東が推進した農村革命の成功でもあった。それまでの党指導者たちは、前述の通り、ロシア革命の成功に倣い、都市の労働者を組織することに集中した。しかし、中国では都市労働者が少なく、しかも都市においては国民党の統治と監視が厳しい状況下で、ロシア革命方式を単純に中国社会に導入することは不可能であった。そうしたなかで、毛沢東による農村革命根拠地の形成という中国社会に適合した革命スタイルが有効性を発揮した。「マルクス主義の中国化」がそれである。つまり、この時代の毛沢東は、中国の実態に即した革命を展開したという点で現実主義的であった。

しかし建国後、毛は国家建設に踏み出すべきところを、前述したような独自の継続革命に邁進した。毛はまず「向ソ一辺倒」を掲げ、先達のソ連の国家建設に学ぶことを決めた。それによりソ連(スターリン)モデルの重工業重点政策があらゆる分野で展開されたが、やがてそれが農業中心の中国社会で摩擦を起こしはじめ、毛もソ連の対応に不満を抱き、ソ連モデルからの離脱を決意した。その結果が大躍進・人民公社運動を通じた「自力更生」だが、最終的に大失敗に終わった。その後、一枚岩といわれた中ソ関係は1960年代初頭には亀裂が表面化し、60年代後半から両国は核戦争の恐怖まで抱くようになった。それが70年代初頭の米中接近につながった。

毛沢東死後、鄧小平の悩みはイデオロギーにあった。特に天安門事件と冷戦崩壊、ソ連解体などに直面し、中国共産党はどう生き残るのか。答えは1992年、中国の南方を視察した際に鄧小平が提起した社会主義市場経済であった。要するに、ソ連の二の舞とならないように経済の市場化は容認することで一定の柔軟性を示し、政治に関しては自由と民主を認めないというものであった。鄧小平はそれを「中国の特色ある社会主義」と命名した。市場化に目覚めた中国に対して、海外資本は敏感に反応し、中国では半市場化が進み、高度経済成長の軌道に乗った。

しかし、それは経済発展の初期段階においては有効に機能したが、江沢民時代から胡錦濤時代に入ると、やがて経済成長は鈍化しはじめ、共産党が市場の許認可権を保持するなかで政治腐敗が蔓延した。結局、党の政治介入による中途半端な市場化により、株式や私有財権、あるいは法制度の不透明性などが問題となった。それはつまり、共産党独裁による市場化という政治体制上の問題がその本質にあった。

習近平政権は、蔓延する共産党の政治腐敗にどう対処するかが最初で最大のテーマとなった。そこで習は反腐敗闘争を柱に掲げ、人事と利権に関わる派閥闘争に着手した。その主対象は党内権力のありとあらゆる分野を牛耳っていた江沢民派であり、習の第1期目はそれに明け暮れたといってよい。しかし、それを最後まで追及することはできない。なぜなら多かれ少なかれ、共産党幹部のほとんどが腐敗していたからである。それを最後まで追及するには、共産党指導の市場経済という矛盾に手を付けなければならない。それはすでに既得権益層となった党の幹部たちにとっては容認できないことである。

中国において共産主義理念は実質的に死んでいる。「中国の特色ある社会主義」や社会主義市場経済はイデオロギーではなく、政策の手段である。突き詰めていえば、共産党は権威主義体制の執政党であり、権力の維持こそが目的で、そこに新たな価値を生み出すようなイデオロギーや理念は存在しない。現在の習近平政権が多用するのは「マルクス主義」だが、誰がそれを真剣に受け止めるであろうか。実質的に激しい階級社会となった中国において、マルクス主義こそが必要だと客観的に見る向きもあろうが、中国の既得権益層の知識人でそれを真剣に考える人はいないだろう。自己否定につながるからだ。

中国共産党は、一貫して「中国的特色」や「中国モデル」を模索してきた。その中身は一貫して曖昧であり、現在もなお国民を糾合するような統一的な価値観は不明確なままである。「中国の夢」や「人類運命共同体」などの言葉が躍っているが、その具体的中身についての議論はない。ただの空虚なスローガンにしか見えない。

むすび

中国共産党100年の歴史的性格を以上のように考えると、結論として何が言えるのだろうか。一言で言えば、共産党は依然として革命党のままであり、執政党になりきっていないということである。もう少し踏み込んで言えば、1949年以後も中国は普通の国民国家になりきれていない。国家や政府の上に共産党が君臨する、つまり共産党が憲法よりも優位性を保持したままの政治体制だということである。それはある意味で、中華人民共和国の上に中国共産党が存在するという不思議な政治体制である。もちろん、形式上は国家を優位に置いたような体裁をとるが、実際の運用上では国家に対する党の優位性が担保されている。これがいわゆる「党国体制」である*4

人民解放軍は依然として共産党の軍隊であって、国家の軍隊ではない。党の危機は救うが、国民の危機は救わないのであろうか。毛沢東によれば、「人民」の反対概念は「敵」である。「敵」はどのように規定されるのか。それはきわめて恣意的な概念で、端的に言えば、共産党の政策に反対すれば「敵」になりうる。毛沢東の継続革命は一応終わったという議論もあるが、最終的な部分は明確にしていない。つまり、中華人民共和国は「人民」の共和国なのである。

過去、党国体制を是正する試みは確かに行われてきた。それは特に1980年代に顕著であった。鄧小平自身の提案により、経済部門を中心に「党政分離」が試験的に進められたが、最終的には党の指導体制をいかに維持するかをめぐって党の抵抗が起きていた。結局、天安門事件によりこうした試みは頓挫した。一方、ソ連においては、ゴルバチョフが自ら党書記長の上位に大統領を位置付けた結果、党国体制が崩れ、1991年にはソ連も解体してしまった。それ以来30年、中国は党が国家に優位する党国体制を存続させている。現実には、習近平政権以後、それが一層強化されていると言えよう。

経済体制と政治体制は車の両輪である。ロシアは政治体制を変えたが、経済的基盤が不十分で、それが政治体制にも影響を及ぼし、形は民主主義だが実は権威主義体制である。中国は一部の市場化によって経済成長を実現したが、その後は一党独裁体制が邪魔して健全な市場化への突破ができず、成長鈍化のなかで党の独裁体制を強化する以外に道がなくなっている。それは奥の細道であり、長期的には不安定への道である。

概して言えば、中国共産党は現実主義に徹した時は成功し、強硬化した時は失敗した。現在の中国は残念ながら後者の道を歩んでいるように見える。

〈注〉

*1 このあたりの先駆的研究として、石川忠雄『中国共産党史研究』(慶應通信、1959年)、B・I・シュウォルツ著、石川忠雄・小田英郎訳『中国共産党史』(慶應通信、1964年)がある。いずれも、革命勝利の観点から書かれることの多かった中国共産党史を、権力闘争の視座からとらえ直した戦後初期の研究業績である。

*2 毛沢東の権力掌握過程と王明路線の粛清過程、および建国後の毛の権力確立過程については、徳田教之『毛沢東主義の政治力学』(慶應通信、1977年)に詳しい。本書は石川の研究を受け継ぎつつ、毛沢東の権力政治を政治学的手法により明快に分析した業績である。

*3 鄧小平時代のこの時期の権力構造については、小島朋之『変わりゆく中国の政治社会』(芦書房、1988年)、同『岐路に立つ中国』(芦書房、1990年)が詳しい。また小島の『中国政治と大衆路線』(慶應通信、1985年)は、毛沢東の権力と大衆運動の関係を論じている。

*4 山田辰雄は、中華民国史研究を通して、中国共産党だけでなく中国政治全体おける代行主義の歴史的連続性を指摘する。例えば、「中国政党史論」野村浩一編『現代中国の政治世界』(岩波書店、1989年)、「現代中国における代行主義の伝統について」山田辰雄編『歴史のなかの現代中国』(勁草書房、1996年)参照。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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