三田評論ONLINE

【特集:歴史にみる感染症】
日本史から「病」を考える授業

2020/11/05

「病」を滅ぼすということ

明治維新を越え、日本が近代国家への道を突き進んでいた頃、甲府盆地周辺地域は深刻な問題を抱えていた。百姓たちの多くが「腹部の異常な膨張に始まって手足が痩せ細り、徐々に動くことすら困難となり死に至る」という奇病に蝕まれていたのである。同地方の発症例があまりに多いことから、この病は「地方病」と呼ばれた。既に西洋の近代的な医療は国内に広まりつつあったが、地方病の原因は依然として不明であった……。実はこの奇病は既に戦国時代から甲府盆地に蔓延していたらしい。というのは、武田二十四将の一人、小幡昌盛の死因は『甲陽軍鑑』で病死とされているが、その症状が完全に地方病のそれであったからである。少なくとも300年もの間、甲府盆地の人々は見えない病魔に怯えながらの生活を強いられていたのだ。

そしてこの状況の改善を求めた現地の人々の嘆願により、ついに謎の地方病に近代医学のメスが入ることとなった。だが病原の究明は難航を極めた。というのも、体内の異常を知るためには文字通り「亡くなった人間の体にメスを入れる」必要があったからである。近代科学と迷信が入り混じる時代、たとえ病理解剖であっても、それは死者を冒瀆する行為として、まだまだ忌避される傾向にあったのだ。しかしその後、一人の勇気ある老人の献体提供をきっかけとして、ついにこの病魔の正体が判明する。その名は「日本住血吸虫」、地方病の原因が寄生虫による感染症だったことがついに明らかとなったのである。

日本住血吸虫は孵化した段階では終宿主である人間に寄生することができず、新型コロナウイルスと同様に中間宿主を介して人体に侵入する。そしてこの日本住血吸虫の中間宿主がミヤイリガイという小さな巻貝の一種である。つまり、ミヤイリガイがいなければ日本住血吸虫は人体に寄生できず、地方病は発症しなくなるのだ。そこで甲府盆地の人々はミヤイリガイの生息地である畔などのコンクリート化や、水田に代わる果樹栽培を推し進めていき、1995年、ついに地方病の終息宣言がなされた。人間にとっては「めでたしめでたし」だが、これは言い換えればミヤイリガイという一種の生物の絶滅を意味する。感染症の根絶、すなわち「病に苦しむ多くの人々を救う」ことは人類にとって共通の悲願であろう。しかしその悲願=大義の名の下に、地上からの絶滅を余儀なくされる生命が存在することも、我々は忘れてはならないだろう。

「文明は猶麻疹の流行の如し」

小見出しは、『脱亜論』の一節である。この後に続く文章も含めて解釈すれば「文明が普及していくことは麻疹が流行することのように不可避なものなのだから、恐れずにどんどん取り入れるべきだ」となる。ではここで、麻疹を軸にして今一度この言葉を考えたい。すなわち「麻疹の流行を妨げることはできない。しかし、文明を受け入れる時のように、これを必要以上に恐れ、悲嘆に暮れることはない」のである。いわば「麻疹の流行は猶(なお)文明の如し」だ。

もちろん麻疹と新型コロナウイルスを含む感染症の流行を全く同一に考えるべきではない。しかし、今以上に多くの病禍に苛まれた時代に生きた人々が、病をただ恐れ平伏してきただけではないことは、既に述べた通りである。つまり、御霊会にせよ先の『脱亜論』にせよ、これらは「病というピンチをチャンスに変えよ」という過去からのエールだとは考えられないだろうか。

思えば、本校ではこの休校中にMicrosoft Teams が導入され、私もこれによって新たな授業形態・方法を改めて考え直す機会を得ることができた。恥ずかしながら、普段の業務やクラブ活動の引率に追われていた日々では到底考えられなかったことである。では生徒の方はどうかと言うと、話を聞く限りでは「仲間とクラブ活動をやることがどれだけありがたいことだったか分かった」や「実は対面して授業を受けることは面白いことだと気付いた」などの意見があるようだ。少なくとも「日常を日常として享受できることの大事さ」を知ることができたのは、彼らにとっても悪い経験ではないだろう。そう考えれば、やはりこの状況は「チャンスに変えていくべきピンチ」なのである。

かつて、上野から砲声が轟き戦火がすぐそこまで迫る大ピンチにあって、動じることなく学問を進め、日本の未来を切り開くチャンスを摑んだのが、慶應義塾の諸先輩方である。本校の生徒たちもぜひこのたびのピンチをこそ、チャンスに変えていくことができるような人間となってくれるといいなぁと、いち教員として心から願うばかりである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事