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【特集:歴史にみる感染症】
フロイトとスペイン風邪

2020/11/05

心的外傷と反復強迫

さらに、フロイトは、前述の論文で、人間の心には外界からの刺激(ストレス因による情緒)に圧倒されないための「刺激保護障壁」があると仮定した。そして、突然(つまり、不安という予感なしに)、強烈な外界からの刺激(エネルギー)にさらされたことによって生じた刺激保護障壁の破綻が「心的外傷」であると考えた。このような刺激保護障壁の破綻によって、外から大量のエネルギーが流入すると、心は大混乱に陥る。ともかく、内部にあるエネルギーを集結させて、外から侵入するエネルギーの洪水をコントロールしよう(押し返そう)とする。そうすると、通常は心の中を自由に漂っているエネルギーが、破壊された1カ所に拘束されて心の他の部分に行き届かなくなるために、感情の麻痺や思考不能などが起こると考えた。まさに、ゾフィーの死の直後のフロイトは、この状態だったと思われる。

ところで、「夢は願望充足である」というフロイトの文言は有名だが、前述の論文で、彼は夢について別の見解を提示した。それは、戦争神経症患者の夢を理解する中で生まれた。彼らは夢の中で外傷的な体験を繰り返し再現していた。これについて、フロイトは「……不安の発生が途絶えたことが外傷性神経症の原因になったのだから、これらの夢は不安を発展させつつ、刺激の統制を回復しようとする……反復強迫に従うもの……」であると考えるに至った。

反復強迫とは、さまざまな動機によって同様のストレス状況を繰り返し体験する傾向をいう。すなわち、彼らの外傷夢は、心的外傷体験を繰り返し再現する中で、今度は「不安」という防御装置を作用させることによって「心的外傷」を修復しようとする試みであると理解されたのである。

ゾフィーの死後に完成した論文「快感原則への彼岸」は、筆者には、フロイトが愛娘の死の悲しみを抱えながらも、戦争によって傷ついた人々の治療からの理解を得て、「生と死の本質」に迫ろうとした試みであったように思える。

〈注〉
なお、フロイトは動物に対して「Instinkt(本能 instinct)」という言葉を、人間に対して「Trieb(欲動 drive)」という言葉を用いていたが、フロイト著作集を英訳するにあたって、「Trieb」も「instinct」と訳されてしまったため、日本でも「本能」と訳出された文献がある。本稿では、そのような文献についても「欲動」に統一して引用した。

〈参考文献〉
国立感染症研究所 感染症情報センター:インフルエンザ・パンデミックに関するQ&A.
アーネスト・ジョーンズ『フロイトの生涯』(竹友安彦・藤井治彦訳)紀伊国屋書店、1982年
ジークムント・フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集』六所収(小此木啓吾他訳)、人文書院、1970年
ジェームズ・ストレイチー『フロイト全著作解説』(北山修監訳・編集)人文書院、2005年
ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』(村上仁監訳)みすず書房、1977年
ネヴィル・シミントン『分析の経験──フロイトから対象関係論へ』(成田善弘監訳)創元社、2006年

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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